攻めること、攻撃的なこと、毒舌と暴言…最後は美意識
前の記事に、こんなコト書いたのだけど。
今後は鯰さんからいただいた「人生攻めるタイプ」を念頭に掲げて、より、ガンガンといろいろいきたいと思います。
「人生攻めるタイプ」の称号?をゲットいたしました! - 緋呂の異界絵師通信
これね。
「攻める」ってこと。
攻める = 攻撃的になる
という意味では、ないですからね。
なんかね、「言いたいことを言う」「自分の意見をハッキリ出す」ということを、
毒舌を吐き散らすこと
だと思ってるのかな?っていうのを、しばしば、見かけるな~と、思うのですよ。
で、
毒舌 = 暴言
だと思ってるのかな?
っていうのも、しばしば遭遇するわけです。
前に、こんな記事を書いたのだけど。
そうまでして、【言いたいことを言うワタシ】でいたい…そういう自分を見せていたい理由は、何なんだろう?
そして…そういう自分でいる手段は、噛みつきまくりの攻撃型をとる以外にも、あるんじゃないのかなぁ?
無理してでも【言いたいことを言うワタシ】でいたい理由は何? - 緋呂の異界絵師通信
盗られる前に盗れ! とか
やられる前にやれ! とか
そういうのって、「攻め」とは言わないって、私は思う。
そういう心理が根底にあって吐き散らすことは、毒舌でもなんでもない。
過激な言葉を使えば毒舌ということではない。
激しかったら攻めというわけでもない。
そんなのは、ただ、暴れているだけだと思う。
筋が通ってないことは、どんなに「理はこっちにある」と本人が思い込んでいても、筋は通ってない。
一見正しいことを言ってるように見えても、行間から「悪いのはアッチだから、自分は何言っても許されるべき!」みたいなことが漏れてきてると、理はそこに無いなって、思えてしまうんだよねえ。
ここ数ヶ月…っていうか、もっとずっと前から度々、逆ギレしてるようにしか見えない暴れん坊さんを度々、あちこちで見かけるのだけども。
結局、誰かに絡んで暴言吐いて、暴れ散らすっていうことは。
その相手に、依存しているっていうことに他ならないと、思うんだよね。
人のブログやSNSのコメント欄などで暴れていく人とか。
ヒトカケラの出来事を妄想で膨らませて被害妄想を吐き散らす人とか。
で、仲間うちでそんな話題が出たら「え?! アナタもあの人と?!」みたいなことがわかったり…ね。
戦う相手は、どこまでいっても、「他人」じゃないよ。
自分だ。
過去の自分。
幻想の自分。
虚像の自分。
「接点」を通過した後は、相手も社会も過去でしかない。
「現在」も「未来」も、共に在るのは、自分だけなんだよね。
強いて第三者として挙げるなら、それはやっぱり、神とか仏だ。
(守護霊とか、天使とか、なんでもイメージしやすいものでもいい)
そして、それも、「自分自身の延長線上」に、つながっている存在であるからには、自分であると言ってもいい。
私が「人生、攻める」を行く道は、1ミクロンでも昨日と違う自分であるように臨む…ということだ。
「違う」という表現を、あえて使っている。
「成長」ではなく。
変化、ということが大事なのであって、それは必ずしも「成長」とイコールではないから。
退化してもいいのか、って思うかもだけど。
退化も、必要ならば、それは起こる。
ただの停滞よりマシだと、私は思っている。
石の上に三年座り続ける…ということをやるとしたら。
それは「動かない」から、停滞なのか?
違う。
一瞬ごとに、「座る」を選び続けるってのが、攻める姿勢。
座る以外を諦めて、誰かが別の体勢にしてくれるのを諾々と受け入れる…なら、「停滞」になるかも知れない。
誰かの手を借りて体勢を変えることを選ぶなら、それも、動きの一つ。
不可抗力で転がされたら?
その後、どういう対処をするかが大事だな。
自分の意志を、どこに持つか。
それが、大事だと思う。
エラそうなコトばかり大風呂敷ひろげて、結局何も回収できずに時間だけ流れた…なんて、最終的な収支はそんな程度になるのかも知れないけど。
それは、結果論だし。
少なくとも、誰かのせいでこうなった!と恨み言だらけになるのだけはゴメンだね。
たぶん、それは、「美意識」の問題なんだろうね。
…とか言って。
私、このキャラ的すっごいダメダメでグタグタな感じで、生きていきたいな~とか、思うんだけどね~。
あ…「酒」は抜きだけどね、下戸だから。
そして、あの恐るべき絵の才能はちょっと欲しい(笑)
イラスト貼りたいけど、著作権的にダメなのでやめとく。