龍とか神とかについて、思うこと 在り方・対価・種族・存在領域
私は、ここんとこ、「緋呂さんと言えば龍」という人様からの評価をいただくようになりました。
ありがたいことです。
逆の「龍といえば緋呂さん」になるには、まだまだですが、一歩は踏み出してる感があります。
「内なる龍」について書いてて、もっと違うところ…今まで自分がどうやって龍と関わってきたか、ってことを、ここらで整理してみるのもいいかもな、って思いました。
数年前までは、「私が龍に触れるのはNG」なんだと思っておりました。
どうしてそんな観念ができてしまったのか…というのは、「とある人間関係の中で生まれてしまった、間違った刷り込み」が元だと申し上げるに留めておきます。
誰に指示されたり強制されたわけでもなく、自分で作ってしまった間違った観念でした。
ぶっちゃけた話、その観念を創り上げた時期というのは、私の今までの人生の中で最も、「痛いスピリチュアルワールド」に浸かりきった時期でございました。
その頃は外へ向けての発信ということも、ほぼ全くしなくなって、完全に「半径5メートル圏内」に引きこもり、見えない世界のアヤシイ吸引力と、密度の高い蟻地獄のような人間関係に身動き取れない状況でした。
ま、アホな話です。
けれど、その頃に学んだことは、すごく大事なことも多かった。
私にとっては良き通過点で、自分の中では「龍ブロックの時代」として分岐点の一つに位置づけしております。
絵の時期で言うと、天使時代の初期の頃ですね。
東日本大震災を中に挟んでの1年弱…といった頃であります。
龍といえば、神話や幻獣神獣系のお話しには必須の存在。
東洋と西洋での在り方の違いも面白いし、小学生くらいから世界の神話が好きになっていた私には、もともと遠い存在ではなかったのです。
でも、ブロックは強固だったので、他の絵描きさんから「なんで龍描かないの?描けばいいのに」と、しばしば言われていましたが、「いやあ、なんか私は違うんで」とか、テキトーに濁しておりました。
でもねえ。
何の根拠もないけれど、誰に教わったわけでもないけれど。
龍と蛇の形態や存在の違い、みたいなものは、若い頃からかなり、はっきりしてました。
蛇は龍の眷属…とか言われると、「そういう場合もある、っていう話だね」なんて、思ったり。
他の意見を否定はしないけど、自分にはこう…という基準みたいなものは、かなりハッキリしています。
龍とは直接の関係はない(一応ね)けど、スサノオさまの剣が何か…とかいうのも、そんなことがどこで話題にされているかもわかんないけれど、はっきり「コレでしょ」っていうのがあったりね。
そこらへんは、自分でも、いつどうしてそうなったのか…ってのが、もうわからない話です。
龍の顔は、いろんなタイプがあります。
ここに、ちょっと書いてます。
これも、実際に自分が龍を描き始めて、そういう話を人とする機会が増えてきて、初めて
「普通に、誰でも、龍の顔もタイプがイロイロあるって知ってる…んじゃないの?!」
という驚愕があったり。
(前に書いた“おにちゃんず”で、自分がレアケースだと知らなかった…みたいな感じですね…)
スピリチュアルなことをお仕事にしている人とか、そういうのがお好きな人との関わりが多かったので、目視できるとか、龍を使える…という方ともいろいろ、お話ししています。
それでも、龍の顔のタイプの話とか、「へえ、そうなんですか」と言われることが多くて。
見るってことはできない私としては、そのたびに、ビビっておりました。
「え?なんで?どーゆーこと? 見える人達が『そうなんですか?』って言ってるけど?」
って感じです。
まあ…見え方もイロイロあるようですし。
全体を見れば、顔タイプの違いなんかは、どうでもいいのかも知れないし…。
エネルギー体として見るなら、そんな細かいところ見えなくていいんだし…。
私は絵描きだから、そういう「外観」に注意が向きやすいのだろう、たぶん…。
なんて、自分を納得させられる理屈をひねり出していた頃の話です。
今は、気になりませんけどね。
誰から「おかしい」と言われても、なんなら否定されても、「いやあ、そう言われましても」ってなもんです。
さてさて。
「自分の中の龍」というのが今回のテーマですが。
今まで書いてきたみたいなのは、概ね「自分の外にいる龍」のことです。
というか、多くの方は、そういう感覚でお話しになっていると思います。
昨日の記事に書いているのは、「内なる龍」で、これは外に出ることはない(出たらダメ)な龍である…と、マーヤラジャ先生の定義があります。
ハッキリ、定義が書かれているのに、ナンですが。
私、実は、あまり、その区別がありません。
というか…これも妙な話ですが。
たまに、「種族が違うな」っていう感じになることはあって、そういう時は「自分の外側」として感じます。
それ以外は、内側も外側も、どうでもいい…というか。
粒子なんですよ。
だから、外にいる時は外にいるけど、そのまんま内に入ってくることもある…っていうのか。
入ってくる、っていうと、ちょっと大げさなんですけども。
通過する…っていうのか。
立体映像が重なって、通り過ぎる…みたいな?
ただ、「自分の核」になっているところに常駐しているカケラがある…という感覚があるので。
外に出ることのない龍、というのも、まあ、確かにそうなのかな、と今思ったりしてます。
彼らは彼らの生態があって、生き物として存在してると思ってます。
人間の世界とはとてもとてもとても離れたところにしか住まない龍もいる(らしい)ので、人間が感知することがある種類としては、はやり、人間が知っている姿に似てる。
というか、人間が思い描く龍の姿、というのが、彼らの側にも影響を与えて、よりそういう姿になっていく…みたいな。
龍の姿というと、ブログにも時々書いてきていますが、私は今まで、どの時代の、どんな人が描いたものに対しても、「これが龍?」という気持ちになります。
もちろん、自分が描いてるものにも…です。
一時は、それで悶々としてたこともありました。
どうしても、違うのに。
こういう風に描くしか、どうにもこうにも、他にどうしていいのか、わからない。
どこが違うかもわからないから、どうやったら感じる像に近づけるのかも、わからない。
そのこだわりを抜けてからは、人が認識しやすい姿に変換しておく、ということについてヘンな気持ち悪さはなくなってきたので、あまり気にせずにすむようになりました。
でも、今でも、なんか違うんだよな…とは、相変わらず思ってます。
そして、その「違う」ところは、顔のタイプとかの細かい問題ではなくて。
そもそも、龍ってナンだろう…っていう根源に立ち返るような違い。
その「違い」も、龍の中にもいろんな存在がある、という細分化で考えることで、ひとまず疑問は落ち着いています。
私は今、敵か味方か、光か闇か、正か邪か…のような区分けはどうでもいいや、という視点に立っています。
龍とか、神とかいうことを、突き詰め始めるとね。
人間基準のそんな区分けは、意味を成さないんですよ。
人間にとってどうなのか、っていうのは、人間としての捉え方でしかなくて。
龍とか神とかは、人間は構成の一部、というところで動いているので、圧倒的に人間に不都合な動き方もある。
それを、人間基準の判定や分類だけで見ても、無駄なんです。
姿の美醜についても、似たところがある。
人間には、高貴な存在は美しい…逆か。
美しいモノは高貴…の方が近いかも。
とにかく、スタンダードな観念があります。
けれど、人間の美醜の観念を超えちゃってることも多く。
ほんのほんの一部しか感知できないので、何がなんだかわからない…っていうね。
それを知ろうとして、人は様々な手段で表現を試みる…わけなんだね。
時に、そうした存在から、ほんのヒトカケラのピースを分けてもらえることがあり。
そういうものを大事に、増幅しながら、私ら絵描きは絵を描くし。
彫刻し、音楽を作って奏で、踊り、物語を創る。
私ら人間の表現者がもらえるのは、その「毛」の先のごくごく一部くらいな質量でしかないんじゃないかと思います。
そこに刻まれている情報は、人間にとっては膨大で、それを解凍するだけでもすごい負荷になる。
その負荷によって、人はそれぞれ、焼き切っちゃう箇所というのが出てくる。
目とか、耳とかいうインプットのインターフェースになる部位は、やられやすい。
脳の、その器官を司るところがやられる…っていう場合もあるだろうし。
自分がやってることが納得できなかった頃は、そういう仕組みについても、釈然としないことが多くて悶々としていました。
やれと言われるからやるし。
イヤと言ってても来ちゃうし。
そうやって抵抗しながら付き合わされている人をいろいろ、見てきた。
なんでそうまでして?
って、思っていた。
物理的な視力をほとんど失った人とか。
耳が聞こえなくなった人とか。
そういう人は、概ね、その「失った部位」を通して、それが機能していた時よりもより多くの情報を入れるようになる。
それを、「対価」だと受け取っていた頃は、本当に、納得いかなかった。
どう考えても釣り合わない取引なんじゃないのか、って、思っていたから。
でも、そういうことじゃないのだよね。
今は、そこは、納得しています。
対価として器官を失っているわけじゃないんですよ。
いや、当人はどう言うかその人にしかわからないけど。
私は、対価として失ってるのではない、って思う。
これはもう、人間という物理的な器の限界とでも言うしかないのだ、と思う。
まあ…そういう風に思うようになったというのは、アチラ側にまんまと、引っ張り込まれて丸め込まれた結果であるという見方もできますけどね(笑)
でも、そういう風に思うに至ったのは、見えない世界に使われる側でいる選択をしていながら、見えない世界を恨みつつ活動していた人を…それも複数の人を、見てきたからかも知れません。
恨み続けていたある人は、表面的には素晴らしいことを言いながらも、被害者意識と表裏一体の優越感に病んでました。
恨みを呑み込みつくし、全部受け入れて進むと潔く決めたある人は、その後状況がどんどん好転していき、失ったかに見えた肉体機能すら復活してきた…ってケースもあります。
何が対価なのか…なんて。
人間に判別が「できる場合もある」…っていう程度なんじゃないかな。
だけど、わかりやすいところで「こうだ」と思っておきたい…というのも、人間の欲求。
たとえ本当はそうじゃなくても、そうだと思って「この件に決着つけたい」って。
考えるんだよね。
龍の話から、ちょっと壮大なところまで逸れてしまいました。
なにしろ、全部一続きに連なっていることなもんで。
どこまでは龍、どこからは別の話…って、分けられないんです。
なぜか、この1、2年、身近なところで龍の話が続々と出てくる状況にいて。
関連する書籍などもたくさん出ていて。
そういうのを見ていると、思う。
「彼らを“使いたい”人が、多いんだなあ~」
って。
自分の中にいるものだけにしといた方がいいんじゃないでしょうかね…とは、思いますよ。
長くなってきた。
一旦終わります。
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