緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

神社はパワスポ? 私の「参拝ナイナイ」五箇条

 白山さんの参拝記事、下の方でこんなことを書きました。

 

こちらの神社は、世の中では「パワースポット」だとか、何らかの特定の御利益の強いところだとか、いろいろと言われているようですが。

私はそういうのは一切、気にしません。

そういう参拝の仕方はしないので、世の中でどう言われていようと関わりないと思ってます。

 

このことについての、私の考えです。

「○○についてのあるある」はよく使う切り口ですが、今回はあえて「ナイナイ」で行ってみたいと思います。

 

 

1.神社を「パワースポット」と思っていません

私には神社はパワースポットではないし、何かを期待して行く場所ではないです。

今年は○○社が△△についての最大パワスポ!
みたいなことを、よく見聞きします。
そういう情報を見てあちこちに行かれる皆さんも多いかと思います。

でも、私はそういうのは一切、関知しません。
というか、一顧だにしないというべきですかね。
関心ゼロ。

そもそも、パワースポットだと思ってないから。


合う、合わない…というのは、あります。
だから、この神社は好きとか、あそこはなんか足向かない、というのは、あります。

その理由も、いろいろです。

「神社が建っている土地」と合わないっていう場合もあります。

そして、その時ごとに、合うかどうかも移り変わります。
今すごく好きでも、来年はそうでもないかも知れません。

そういうのも、なんとなく起こることで、外部情報によって左右されるようなものではありません。

 

また、参拝したからといって、行った人全員に等しく「○○の浄化が起こる」とか「○○の癒やしが起こる」なんていうことも、全然信じてません。

そういうことが起こる人には起こるかも知れないけど、まあ、ぶっちゃけ「プラシーボ効果」であることの方が多いんじゃないでしょうかね。

 

参拝後に、何らかのカタチで「起こったこと」を感じ取るっていうことは、あります。

「あの時の参拝が!」みたいに、きっちり結びついて感じ取れる場合もあります。

けど、そういうケースの方が少ないんじゃないかな。

 

そういうことが起こる時って、「その参拝」が、コップに満たした水の表面張力を破る最後の一滴に相当する時です。

他のことが様々積み重なって、最後の一押しとして、「参拝という行動」があった…というケース。

あと一滴足らなければ、その時は水はあふれてこないので、参拝という行動では現象は起きないわけですよ。

なので、世に「○○に行くと△△が起こる」というのを広めている方は、その最後の一滴に相当した参拝で、「あそこに行ったおかげで!」と広めてらっしゃるんではないかと。

 

 

2.滅多なことでは祈願はしません

どうしても、という時…それはもう、本当に「どうしても」という時だけです。

過去に2度ほど、ありました。

中間報告やお礼参りのためには、二度と行けなさそうな遠くの神社で祈願するのは避けた方がいいですね。

 

そのことがあった時は、以後、その願掛けが満了されたと自分が感じた時まで、他の願いを神前で思うことは一切、してませんでした。

一点掛けってやつですね。

それほどの内容だったってことです。

ちなみに、自分のことではありません。

 

だから、参拝のたびにホイホイと願いゴトを唱えるってのは、無いです。 

もっと気楽に願いゴトしたらいいのに、と言われたこともあります。

否定はしませんが、私はやりません。

 

 

3.いろんな考え方やスタンスがあるし、他を否定はしません

ナイナイ書いたけど、「みんなもそうしろよ」とは思わない。

つきあい方は人それぞれでいい、したいように参拝したらいい、と思います。

 

神様に…というか、人間以外のなんらかの存在に、「何か」を期待しても、それは「人間の尺度とは違うところからの回答」でも構わないという前提のもと成立することだというのが私の感覚。

 

だから、人間の願いが、その通りの意味で伝わるかどうかも疑問だし。

戻って来た答えなり、結果なりが、願う方向であるかも知れないけど、まあいいか…というアバウトさは持ってないと、「恨み辛み」が出てくるように思いますね。

 

まあ、それも含めて「軽く願いゴト頼むのだっていいじゃない」っていうのも、いいと思いますし。

どんな付き合い方しても、いいと思います。

作法も、別にそんなにこだわらなくていいんじゃない?って思います。

心得はあって困ることはないから、知っておくことはおすすめしますよ。

 

けど、少々不作法でも、アチラはそれほど気にはしないとも思ってます。

(それも、相手や場合によりけりだ…………ってのは、実際確かだっていうのも、確信があるけどね)

 

 

4.大事なのは「己の信じるもの」であって、神格やら眷属そのものではありません

神格やら眷属やらは、杖のようなもの…というのが、私の考え。

 

願いを受け取る側(アチラ側)が大事なのじゃありません。

願いを発する側(人間)こそが大事。

詳しい人がどう言っただとか、一般論がどうだというよりも、自分がどう信じるかっていうのが問題。

だから、思ったことはなんでもとにかく願っとけ!というのを信じるなら、それでいいし。

パワースポットだから何かに効くとか、具体的に御利益を望むとか、それが可能であると信じるなら、それでいいと思う。

 

願う先にある存在というのは、とどのつまり

 

「己が<こう在りたい>と願い、その成就を信じ、現実に起こす…というところへ至るまで」頼りにする「杖」

 

だと、思うのですよ。

 

どうしたい、どう在りたい、どうなりたい…っていうのを自分自身に対してもハッキリさせる。

神前で「願いとして文言化する」ことで、スイッチが入る。

それが重要。

 

 

5.多額のお賽銭をしたのに…なんて、思っても意味ありません

基本、アチラは「したいからやってるんやろ?」てなもんです。

私が思うに、「多額のお賽銭」そのものが効果を生むのではなく、

 

「多額だ…多額だよっ!こんなに入れたらこの後生活できんよっ!でも、それくらいの気合いでお願いするんだよっ!」

っていう、人間の気迫そのものが効果を生むんだろうな、と。

 

または。

 

「すっごい金額だと思うけど、なんかそうしたいし、いっか~♪」

といったお気楽さや、気っ風の良さってのが、アチラを楽しませるので、効果が出やすい…てのも、ありですね。

 

未練たらたらで、たくさん入れたのにぃ~っていうのは、たぶん一顧だにされない最大要因な気がします。

そんな思いは意味がないので、入れられる無理のない範囲で気持ち良く入れましょう。

もうどうしても無理っていうときは、正直に「今は1円のお賽銭すらも出せないんです」って正直さも、案外有効に感じますよ。

そのかわり、本当に「1円も無理」って時だけですけどね。

ウソにはシビアですよ。

 

 

 

 以上、私が思う「神社参拝ナイナイ五箇条」でした!

 

 

人智を超えた存在の力ってのは、ある

ええ、あります。

あるといいね…っていうレベルではなく、あります。

 

でも、それは私の感覚の下で「これはそうだ」ということに関してであって。

他の誰かにとっても、そうとは限りません。

 

それもまた、人それぞれが決めること。

 

2012年に書いた記事があります。

読み返してみたけど、今もほぼ同じような感覚だったので、リンク貼っておきます。

 

ameblo.jp

 

 

上の記事は、「人」と「人と一緒に生きる動物」で関係性をたとえてます。

 

最近、もっと切れ味のよい「たとえ」をしてくれた人がいます。

「使い手」と「切らした調味料」…というたとえ。

 

「あ、○○作ってるのに、ちょっと醤油が足らない~ (隣に行って)ちょっと貸して~」

「いいよ~ (と、手持ちをほいっと渡す)」

「どうも~。代わりにこれ使って~(自分の手元の別の調味料を渡す)」

「あ、ども~」

 

調味料に相当する「三次元の世界で何かをやらせる人間」を、勝手に都合良くやり取りしあう、アチラのヒト同士…と。

 

中には、仕込みが難しくてカンタンに代替えのきかない調味料もあるし。

いくらでも湯水のごとく使い放題のものもある。

そもそも、あってもなくても大枠では支障が無いっていうものも、ある。

 

人間とはスパンもスケールも全く違う…っていうのは、ほんと、そういうようなもんですよ。

 

 

信じる信じないは、あなたの自由。

ちゃんちゃん。

 

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