やってないモノは負け...というより「存在しない」も同然なのだ
全ては、自分の勝手な思い込み。
最近、本当に、これを実感する出来事に遭遇してばかりいる。
自分が普通にできることや、意識なしにやっていること。
それらは、自分の中ではどれもこれも「別に?」「大したことないし」「誰でもこんなのやってるでしょ」と思っていることばかり。
けれど。
その切り出し方を意識してみれば。
あちらこちらで、それと同様(に見えること)を、お金をもらってやっている人がいる。
世の中、そういうものなんだなあ...と。
思う日々。
あ、もちろん、自分は万能だとか思ってるわけではない。
どう頑張っても無理、っていうことだって腐るほどあるし。
むしろ、そういう事の方が多いのだ。
そこは、よくよく、わかっている。
同時に。
その、「よくよくわかっている」ことが原因で、「本当はけっこうスゴイらしいこと」までも、「いやいや、こんなの」と思ってしまっていもいるのだ。
ちゃんと、切り分けて見ないといけない。
そうでないと、損失が出るばかりだ。
今の世界は、もう、出していかないと腐るだけ...の、流れになっている。
確かに、今でも「沈黙は金」なことに違いは無いのだが。
その中身が、昔と違う。
やったモン勝ち、という悪い側面を意識するばかりでなく。
やってないモノは負け...というより「存在しない」も同然なのだ、ということ。
勝ちとか負けとかではなくて。
存在しているか、していないか。
在るか、無いか。
イヤでも何でも、もはやその流れは止められない。
と、私は思っている。
この写真は、以前に作った陶器のあかり玉とペン画の龍を合成したもの。
すでに手を離れている作品すら、こうして更に新たな一面を創り出すことができるのだ。
切り出し方を工夫する、というのは、単に「よく見せる」ことではなくて、「新たに創造する」ことでもある。
と、思う。