旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

自信に根拠などいらない なりたい理想があるのなら根拠を探すよりひたすら信じて動け Instagram観察で得た実感

根拠なんかいらない。

こうなると思う姿を、「そうならないなんて意味がわかんない」ていうくらいに、思い描くだけ。

 

 

実を言うと、そういう考え方にはちょっと、疑問を持っていた。

というか、「なんだそれ」って思ってた。

 

けれど、やっぱり、それが一番大事なんだと感じられるようになってきた。

 

ナンのきっかっけがあった、というわけではない。

単純に、「やっぱり、そういうことだよね」と、急に思えるようになっただけだ。

 

 

別に原因探しは重要じゃない。

そうなった、ということを受け止めるだけのことなので。

 

でも、一つ「これ影響してるかな」と思えることは。

Instagram観察だ。

 

 

知り合いをフォローする、という使い方はしていない。

一時はそうだったのだが、ある時に、日常写真などをUPしている人はフォロー対象から外す」「Facebookと同じ画像しか載せてない人は対象から外す」と決めて、そうした。

結果として、今私のInstagramには、美しいものやスゴイ作品、驚く作品、絶景写真などしか流れてこない。

 

絵画、イラスト、彫刻、陶芸、宝石、彫金、ワイヤーやビーズ、木彫、そして美しい人物と景色、空や自然。

 

その、なんと気持ちいいことか。

 

 

人によっては、Instagramにも宣伝コピー入れまくり画像をUPしているらしいのだけど。

私は、そういうものが流れてこない。

フォローしていないから。

選んでいるから。

最近力を入れてより美しい画像が入ってくるようにどんどんフォローしたり外したりをしているので、強化されてきている。

その結果、

「世の中は、なんと素晴らしいものを創り出す人にあふれているんだろう」

って。

思えてくるまでになってきた。

 

 

Instagram以外の生活の全ても、これと同じじゃないのか?

 

 

そう思うと。

「ランクが上の人たちと交流しなさい」と言われていることも、実感としてわかってくる。

 

自分の中の美しくない部分を外に見せない、という考え方も、わかってくる。

 

これは、「美しくない部分を見ないようにする」ということとは根本的に違う。

自分自身はそれを直視し、美しいものに変えていく努力をする。

しかし、それを外には出さない。

そういうことだ。

 

そんなことしていたら無理が来て自分が辛くなるだけ。

ていうのが、今流行している考え方だと思う。

 

しかし。

それを超えてでもなりたいものになりたいかどうか、で、判断は全て変わってくる。

 

超えなきゃなれないものになりたいのなら、無理でも辛くても超えるしかない。

そういう時は必ずある。

なのに、いつでも「無理しなくていい」って言ってたら、現状維持どころか下降一方だ。

 

 

こんなこと、「なにを今更」なことばかりだ。

今までいろいろな人から聞いてきたことだし、たくさん、同様のことを書いたものも読んできた。

 

でも、「ふーん」て思っているうちは、響いてないってことで。

大事なことだとも実感していないし、ましてや必須だなんて、思えない。

 

 

美しいものを創る側でいたいのなら。

そうあるべきだ。

 

 

こんな風に思えるようになったのも。

陶器作品を作るようになって、今までとは額の違う設備や材料が必要になるようになって。

陶器という、他の絵画よりもずっと色褪せず変質しにくいものを作品として残すようになって。

 

自分は、何をする人間なのか...ということを、今まで考えていたのとは別の視点、別の深さで考えるようになったからだ。

 

さらに、販路を作る前提で、上代設定をシビアに検討しなきゃならない局面が来た。

 

物事には、「現状を現実的にシビアに測る」一面と、「現状には関係なく、自分とはこういう者なのだという信念」の一面と、その両方が必要になるのだ。

 

そのギャップが大きいほど、信念の中の自己像に現実を近づけていく努力が必要になる。

そして、その信念を持ち続けることができなければ、早々に諦めたり妥協することになるのだ。

 

 

どこの誰かもわからない人たちが日々投稿を続けるInstagram。

その観察で、美しいものをたくさん見るようになって。

そんなところまで、念が強化されはじめた。

 

 

と、いうことは。

私がその恩恵を受けたように。

私がそこに主張を投げることによって、いつか誰かが同じように、信念を強化する日が来るかも知れない。

 

まず、自分から出す。

それをしなければ、起こることも起こらない。

 

 

雑然とした段ボール箱の山に埋もれて過ごしながらでも。

その現実の風景とは違った景色を見ることができる。

 

 

自信に、根拠などいらない。

 

自信がない、というのも、一種の逃げ口上にすぎず。

結局は、「やりきることを避けてもいい理由」づけの一つでしかないのだ。

 

 

 

世の中の、理想の自分になりたい諸君。

 

それが現実になるかどうかは、君の「根拠のない自信」の強さや、それを抱き続けることを自らに許可できるか否か、にかかっている。

 

私も今この年になって、ようやく、そのことが実感できてきた。

 

風呂敷ばっかり広げてカッコ悪い、とか。

痛いヤツじゃん、とか。

 

そんな風にしか捉えられないうちは、理想の自分になんか、なれっこないよ。

だって、なろうとしてないのだから。

 

半世紀生きちゃったけど、まだ寿命は来てないし。

もし明日が寿命の期限だったとしても、明日までは、理想になろうとし続けられるってことだし。

 

この世界は、実に、素晴らしいと、心から思う。

 

 

 

ある朝の景色

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