お盆を考える
お盆です。
私、神とか龍とかと関わっているから。
世の中的にはおそらく、そういう人間ならお盆もさぞや大切にするだろう、と思われているかもです。
実は逆です。
ご先祖様に感謝を、という意味ならば、その通りだと思ってます。
ここまで続いてきた血統の、どの一人がいなくても私は存在してない。
そんなことはもう、今更いうまでもなく、重々わかってます。
うちには仏壇はないけど、そういう観念なら常に頭にあります。
が、しかし。
別に送り火迎え火もしないし、ナスやキュウリの馬作ったりもしません。
日本の風物詩は情緒があって好きですけど。
それを自分がやるか、っていうと、話は別。
お墓参りも、する時はするけど絶対じゃないっていう程度。
「この日くらいは」という考え方もある。
けれど「この日だけじゃねえだろ」と思う。
先祖供養するのが開運の一歩、のような話は、実際そうだと思ってます。
そこに異議はありません。
が、しかし。
生者は死者のために存在してるわけじゃないやん。
必要以上(と私が感じるライン)に先祖、先祖、と言われると、正直うんざりします。
盆正月には、いい思い出ないし。
一族が集まる日に、いい思い出ないし。
その拗れを直すが私の役目、とか?
冗談でしょ。
まあ、私はそんな人間です。
そんな人間でも、神は別に、そこを咎めてきたりはしないよ。
盆の行事をやる、その気持ちだと思うんだよね。
やらないと何かマイナスのことが見えない世界的に起きるんじゃないか、なんていう恐れの気持ちからやるんだったら、無理すんなよ、って思うよ。
一族が集まるっていうことが、どうして、こうもこうも、重圧しかなく負担しか生まないのか。
集まった人全員…とまでは無理でも、少なくとも「その場を提供し、もてなす」人達にこんなにまでも負担がかかるような仕組みしか、なんで、できないんだろう。
昔はさ、家督を継いだ一人だけが財産も全て相続した、とかあったから。
全てもらうかわりに、そういう時は出す、ってのが成立しただろうけど。
今じゃ、分与は公平に、でもそういう時だけは長にがっつりやらせる。
って、なんかおかしくない?
もらうものを公平にするなら、負担も公平でなきゃ意味なくない?
ていうか。
もらうものがほぼ無いのに、出させるだけは出させるケースの方が多くない?
しかも文句言われて。
アホらしい。
私は、親戚なんか山賊だと思って育ったから。
ほんと、盆正月の行事から解放された今の「核家族の分家」は快適です。
それでも、実家には顔出さなきゃいけないから。
ほんの近いところなのに、たかがそれだけでももう、朝から憂鬱。
私や私の家族につながる血の縁者の誰かが、盆と言わずどういう時でも、もしかしたら帰ってきて何か言ってるかもしれない。
そういうことは、この時期でなくても思ってる。
そりゃあ、向こうにしてみたら不十分で不満かもだけど。
記憶にある直近の「ご先祖様達」には、はっきり言って「いい思い出」はほとんどないんでね。
(可愛がられたことがない、と言ってるわけではない。よい思い出がめったとないと言っている)
生きてる人間が優先だ、という私の考えは変わりません。
そんな、8月15日。