ねじ伏せてでも伝えるのだ、と決断するに至るまでの経緯が批判者のテーブルに載らない件を考えた
ねじ伏せることでしか伝えられないこともある。
と、私は考えている。
ただ、それを「正義」とは言わない。
正義というのは諸刃の剣。
それを掲げて戦争をするのだから。
正しいのか、間違っているのか…という二元的な話では語れない。
そこにあるのは「ねじ伏せてでも、伝えたいことを的確に伝える必要がある」という判断。
その判断が、正しいか間違っているか…なんてことは、何を軸にして正邪を決めるのか、っていう話であって、
「その時点で、そうしてでも伝えることを選んだ内容」
とは、別の問題だ。
「ねじ伏せる」をやった時の手段には、是非はあると思う。
どこまでは正当で、どこからはやり過ぎなのか。
法的にどうなのか。
人間としてどうなのか。
それぞれ、線引きの基準は全く違ったものになる。
ただ、それらは全て「ねじ伏せてでも伝える必要があるのだ」という出来事があって、その後の話だ。
つまるところ、それらは全て事後に発生する話だ。
その時、滅多なことでは、「なぜ、そこまでの決断をするに至ったのか」という流れについては、ほとんど論じられることがないように思う。
出来てきた結果に対して、ああいうやり方はフェアじゃないだの、やり過ぎだの、非人道的だのとという「意見のような批判」が出てきているだけであって。
そこに至る過程は、そのテーブルに載せられるのはほんの一端しかない。
批判者の多くは、その経緯をほとんど鑑みずに「力ずくに出た」ということを批判している。
私には、それもフェアじゃないよな、と思える。
何も経緯が無いのに、単に気分で相手をねじ伏せた、っていうならば問題だけど。
だいたいは、そんなわけない。
そして、「ねじ伏せてでも伝えるのだ」という決意をした人、というのは、それを繰り返す。
それが是だと判断したから。
繰り返す人は、当然、目立つ。
あいつはいっつも、ああいうことやってる…と、言われる。
その人が日々相手をしている「ねじ伏せるまでには至らなかった案件」がどれほど積もっていたか…なんてことは、語られないのだ。
今回はあえて、力を行使する側に立った意見を書いた。
される側に立てば、全く違う意見が出てくるけど。
される側の論というのを書く人は多いので、まあいいか、って思ってもいる。
力ずくでも…なんて決断をしなくてもすむのであれば、それが一番いいに決まってるよ。