やった後に「やった事実」をどう活かすか、ということと、活かすために「事実を作る」のとは違うのだ
せっかく教えを受けに行っても、
「ああ、これは実践できない」
という結論に達することは、まあ、ある。
やってみてから言えよ、というのがほとんどのケースであり。
そこに、異論はない。
のだが。
ノウハウの話や、考え方を改善した方がいいという話ならば…ね。
ひとまず、一定期間でもやってみて、それから考えるか…って。
思うんだけど。
残念ながら、神様ゴトでは、そうはいかないことが、まあまあ、ある。
数ヶ月前、とあることのプロの方からいただいたアドバイスが、あった。
言われた時点で、かなり渋った。
後に別の機会に短いセッションを受けられることになっていて。
その時にも、その同じアドバイスが出て。
その時も、渋った。
理屈だけとれば、確かにそれは、やった方が良いこと。
でも、どうにも、腑に落ちない。
やってみたことがないことを言われているから、よくわからないのは当然だ。
…ってのは、こういう話の時に常に出る見方で。
実際、ほとんどの場合はそうで。
「今までやっていないことをやらなくては、打開できない」のだから、まず従え。
と。
それは、正しいと私も、思っている。
が!
その時いただいたアドバイスについては、後日、ハッキリと
「そういう動機で行うことじゃない → その動機が微塵でもある間は、やらない」
という結論を出した。
それは何だったか…というと。
「絵の奉納」だ。
神龍画の描き手であるということの、対外的な「わかりやすい実績」として。
奉納しまくれ。
…と。
ダメだろ。
ダメだ。
そんな目的のためにすることじゃない。
他の人はどうか知らない。
他の画家さんが、奉納したことを実績としている…というのを、どうこう言う気はない。
私ではない他人のことだから。
自分の作品を、その神社に納めたい。
純粋に、そこの神への捧げ物として制作したのであれば、いい。
だけど、奉納をした、という事実を、「自分の絵描きとしての実績」つまりブランディングに用いるために行う…というのなら。
それは禁忌だ。
腑に落ちなくて、玉串料もバカにならないし…みたいなことを言っていたけれど。
そもそも、そういう問題じゃねえ。
それが、その時すぐに出てこなかったということで、私は、非常に情けない思いをした。
自分自身に。
禁忌感について書いたので、このことも白状しておくことにした。
アドバイスしてくださった方に対しては、感謝をしている。
私を、「プロフィールを見ただけで買いたいと思わせる人物」にするためにはどうしたらいいか、ということを真剣に考えてくださった上での話なので。
(ちなみに、神仏との関わりも浅くはない方で、講座の中で出て来たお話しはとても面白くてためになることが多々あった)
他の人に禁忌でなくても、私にそうなら、そうなので。
私の中で、実績として利用できるという気持ちがカケラでも動くうちはやらないと決めた。
いずれ、玉串料も気持ち良く出せるし、その神社のための絵だと純粋に思えるものができた時には…ということにする。
実際、奉納したい神社はいくつかあるし。
くどいようだけど、他の方に対してどうこう思う気持ちはない。
これは、私の中にはある、私の基準によることである。
まあ…まずは順当に、ここから始めないとねえ……………
なぜか他の神社よりもご祈祷料が高い津島神社。
玉串料いくらなのか、知らない…。