自己の絵描きアイデンティティーの在処について考えてみた…ら、壮大な話になってしまった件
絵描きとして、自分の基本…というか、かなり根幹の部分に関する「あれ?」が出て参りました。
絵描きとして、人から言われて一番傷つく(怖い)こと
って、なんだろう………
多分、それこそが、自分のこだわりというか、「自分の絵って、コレだ」というポイントを突いたところなんだと思うんだが……
ヤバいな、思いつかないぞ…
発端は、こちらの記事。
一部、引用します。
似ることは、描き手からするとオリジナリティーの欠如に他ならない。
もちろん『完全無欠のオリジナル』なんてものはプロからアマまで作品が溢れ返っているこの現代においてもはやあり得ないし、模倣から入ることは全く悪いことではない。
(私も小学校の頃は鳥山明の絵ばかりマネしていた)
けれど特定の〇〇に似ていると言われてしまうと、それはもう自分を否定されたも同然なのだ。
Facebookでシェアする時に、読んで思ったことを書きました。
それが、以下のコメント。
そうか…否定されたも同然なのか…。
面白いな、と思う。
私の場合は、ちょっと…違うかも。
特定の漫画家さんの絵に似ている、と言われることは、多い。
大きく系統も分けられる。
が。
そのご指摘?は、ほぼほぼ、たいてい、「いや、違うんだけど」なのだな。
その漫画家さんのお一人は、ぶっちゃけ「その方は大御所なので、存じ上げております。が、私自身はほぼ、読んだこともございません。その方のファンの方と同年代なので、感性としては理解できます」という方。
もうお一人いるけれど、「いや、ぶっちゃけ、その方じゃなくて、その方が師匠としていた方の方がベースにあります」ということで。
今まで、私の絵柄のルーツを最初からズバリ指摘した人はいない。
もはや、私にとっちゃ、その話は「一種のゲーム」に近いかも。
あ、今、思った。
特定の誰か既存の人の絵に似ている、と言われても
「いや、それ違うんだけどな」
とかいう感想しかない…って話。
もとの発信をされている方と、捉え方が全然違うんだ。
そうか。
私、あんまり、自分の絵のオリジナリティ云々ってところを重要視してないのかも。
「似てる」というところに反応せず、お互いが想定する「ルーツの違い」に気が行く…というのは、そもそも己の絵柄のオリジナリティってものが「ルーツとなっている元の人」の上に成立している、っていうのを完全に受け入れてるから…なのかな。
そして、百万さんが、こんなコメントを下さいました。
あ、こちらを読んで私も「なるほど」と思いました。 私の場合その「似ている」と言われる人を自分がルーツとして意識しているかどうかは、あまり関係がないので。 お察しの通り「オリジナリティ=アイデンティティ」の話です。
さらに、思ったことを呟いたのが、記事冒頭に書いた太文字の4行。
絵描きとして、人から言われて一番傷つく(怖い)こと って、なんだろう………
なんだろう。
すでに、この発端から数時間が経過していて。
ずっと考えてるけど………
思いつかない(^_^;)
いや、カンチガイされても困るから明言しておくけど。
どんな酷評を受けたってへっちゃらさ!なんて、そんな鋼のメンタルは持ち合わせてません。
でも…
確かに…
似てる、という話はもう上に書いている通りだし。
嫌い、って言われても「まあ、そりゃ、仕方ないよね」って思うし。
ヘタだね、って言われても「だよね」って思うし。
あー、最後の「ヘタ」に関しては、上の2つよりは重要ですよ。
ただ、基本的に、自分はウマイと思ってないんで。
そして、「似てる」に関しても…
完全なるオリジナルなんて、今のこの世には、もう存在しない。
それを、言い切れるから。
だから、そもそも、それを求めていない。
そして、それと対になる考えが
「人間は、全ての人が単一の存在なので、どんなに似た者同士であっても必ず違う」
というもので。
だから、「完全なるオリジナルはもはや存在しない。しかし、万民が生み出すモノは全てが違う」というのが、根本的な考え方。
どんなに似ているように見えたとしても。
その「あ、似ている」と思った人が、どの部分にどのように着目した上でそう思ったのか、ということも、おそらく受け取り側の考えや印象とは違ってるはず。
…というのは、実際に、「●●さんの絵に似てるね」ということを直接言われた時に、必ず、「どこらへんが?」って、聞いているから。
だから、その人が見ているところが、けっこう自分が「そうかな」って思ったコトとはズレてる…というのを、わかっているのですよ。
そもそも、雛形そのもののカタチがお互いズレているってことです。
そんなん、比較する意味、ある?
で、百万さんは
「オリジナリティ=アイデンティティ」の話
と、コメントされている。
私のアイデンティティは、誰に似ていると言われようが、上に書いた通り
「どんなに似てると言われても、必ず違う」
という信念の下にありますので。
そんなのは、どうでもいいのです。
で?
じゃあ、私の「アイデンティティ」って何だろう…。
って思った時に。
結局、私は、「絵」そのものに対しては、それほどの執着はないのかも知れない。
っていう答えです。
だから、無軌道に、立体造形もやるし、木彫りなんかもやろうと思っているし。
彫金とかも、やりたいし。
でも、それらをやろうとする時に使っている感覚というのは、どこまでいっても
「絵描きの感覚」
だな、とも思うのです。
それは、ずーっと陶芸だけやってきた方との会話などから、よく、感じます。
「どのような絵を描くか」
っていうところではなくて
「絵を描くか、描かないか」
の二択…みたいな感覚?
私は、文章書くことすらも、絵描き感覚でやっています。
正直なところ、一番ラクにできることは文章を書くことです。
絵よりも、よっぽどストレス低いです。
(小説は別。あれは絵とはまた違った、とんでもない負荷がかかる…)
でも、たぶん、絵描きではない文筆家の方とは、全然違った文章のヒネリ出し方をしていると思います。
私の文章は、ビジュアル…というか「視覚的な感覚」から、入ります。
視覚的感覚から単語検索が始まり、必要な単語を「書きたいことの核」のまわりに収集し、それが照合されて文章となって手からはじき出されてくる…と。
無理矢理に言語化すると、そんな感じ。
絵の場合は、この行程のうち「単語検索」が「色の識別」に替わるかな。
モノクロの絵を描く時でも、そこは一緒です。
…たぶん。
そこまで厳密にチェックしてみたことないから、想像。
あー、話が完全に逸れている。
で、結局…
絵描きとして、人から言われて一番傷つく(怖い)こと って、なんだろう………
なんだろう…………
もしかしたら。
「価値がない」と言われること
…かも知れない。
それは、私が絵をやめるまでの長い時間のうちに積もった、すごいマイナスオーラ/負の磁場を発する観念だったので。
この世界のどこにも、一片たりとも必要とされていない。
そういう、感じ。
孤独感っていうのとは、また違う。
私は、自分が描いた絵で自分自身を楽しませる、ということが、あんまりできないから。
そういう風に、思うのかも。
なるほど。
なんか、ちょっと、理解できてきたかも。
一旦は描くことを放棄して、もう二度と戻ることもないだろうと本気で思っていた…という時間が長かった私にとっては、
「今、描いているし、もう辞めることもないだろう」
という感覚でいること自体が奇蹟みたいなものなんだな。
だから、技術だオリジナリティだ、ということは、もはやどうでもよい。
そして、「価値」ということに関して、答えをハッキリと出せるように、「生業として成立させる」ことが大事。
そういう、ことなんだ、おそらく。
今、描いてる状況に生きているということ自体が奇蹟。
だから、どんな絵だとかも関係ない。
(あ、それは「人から言われるままのモノを描くことも抵抗ない」とかいう意味ではないですからね。あくまでも、選ぶ主体は自分だから、自分がやりたいことしかやりません)
お…
ついでに今、なんで題材が神とかなのかっていう自己疑問の答えの片鱗を見た気がする。
それ自体が奇蹟だから。
そこに、全部、集約されるのかも知れない。
うわぁ、話が壮大になってしまった。
百万さん、このキッカケを下さって、ありがとうございます!
超大感謝!