安易な謝罪は創作家の名折れ
創作家なんて、常にどこかの誰かの不興を買うものだ。
万民一致で礼賛されるなんてことは、ありえない。
(あったら、それはそれで恐ろしい)
書いた時の自分が、誰かに操られていたのだ...みたいな話ならば、また違ってくるだろう。
そうでもないのに、自分が書いたもので不興を買ったからといって、謝罪する必要などない。
もちろん、内容にあきらかな誤りがあったとか、法律的に問題があることを薦めていたなどの「明白な創作家側のミス」ならば、謝罪すべきだろう。
が、誰かの感情を害したとか、世論の流れに反したなどの理由は、謝罪理由ではない。
それは、ただの迎合だ。
自分の作ったものと、その時の自分自身に対しての冒涜でもある。
安易に叩く、安易に折れる。
叩くことと、不快感という感想を述べることはまるで話が違うこと。
そして、叩かれて折れることと、人の感情に配慮することは、もっと話が違うことだ。
サイキックソウルアートは、受け取る人にも負担や覚悟が必要になる作品です
サイキックソウルアートは、「魂の本質」の絵
であると、定義しています。
すいません、固い表現で。
もっとふわっと表現できればいいのですが、なかなかそうもいかなくて、どうも固いものになってしまいます。
先日お納めしたサイキックソウルアート。
印刷の上に一筆描き加えるバージョンのため、加筆後の作品で。
ゴールドに光を当てて反射させているので、傾いております。
プリントサイズは2Lで、フレームにセットしてのお納めです。
メニュー化する前に描かせていただいた先生方の作品紹介や、どのようにして描いているのか...については、こちらで。
この絵。
ご依頼者様ご自身からだけでなく、その周辺からも、情報を引っ張っています。
チャネリングしてます...と言わないのは、これがそうだと私は断言ができないからですが。
ご依頼者様の守護の方が私に許可くださった範囲からしか、引っ張ってくることはできません。
この意味を、ちょっと、書いてみようと思います。
と、いうのもね。
「許しがたい犯罪を犯したことがある人や、どう考えてもこいつダメだろっていう人から依頼があったら、どうするの?」
という、問いがあったからです。
直接聞かれたわけではないけれど、ハイヤーセルフとか守護霊とか守護天使とか守護神とか、まあ、私が言うところの「守護」からメッセージをもらう、というお仕事をされているらしい人のところで、そういう主旨の質問を見かけたのです。
私は、基本的に、ご依頼があった方が「実際どういう人間性でどういう過去をお持ちか」といったことは、全く、たずねません。
だから、もしかすると、そういうことはあり得る。
じゃあ、もしも何かの拍子に、依頼人が問題のある人だと判明したら?
別に、変わりません。
そのまま、描きます。
どういう仕組みになってるかは、私には何とも言えませんけれども。
だいたい、受けることができない状況に陥るであろう人については、受注段階で何らかのトラブルが発生します。
キャンセルになったり、お断りすることになったり。
なので、まずそれをかいくぐって、お支払いも無事にいただくところまでいくという時点で、私に対しては許可が下りています。
全くお会いしたことのない方の場合は、お写真をいただいた上で音声セッションをお願いします。
もしもご依頼人様がセッション不要とされた場合は、お写真のみでつなぎます。
写真NG、音声セッションは可...という場合もOKです。
どちらも不可の場合は、お名前が頼りになりますが、お請けはしております。
この時。
私が接触を許されるのは、ご依頼人様の守護さんが私にOKした範囲のみ。
過去の犯罪や、その方のマイナス面について、特に触れる必要がないなら、そこはスルーですし。
もし、触れることになったとしても、私には、手が描くように描くしか、ないのです。
現実のご依頼人様が、仮に、実際私がリアルに交流を持った時にあり得ない、許しがたいような方であったとしても。
それはあくまでも「私の個人的主観」でしかありません。
そして、絵に、私の主観は不要なのですよ。
逆に、私は、この絵を受け取ってくださるご依頼人様の方に負担がかかる場合もある...と、思っています。
もちろん、お支払いいただくのは安い額じゃないので(今までお請けしていた金額と現在、かなり違います)、そういった面でのご負担はあります。
今言う「ご依頼人様にかかる負担」は、絵に描かれているものが壮大だったり、美しかったり、高貴であったりすればするほどに、現実的なことを思った時に
「自分って、こんなんじゃない」
などの、マイナス感情が生まれてくるかも知れない。
ていうことです。
受け止めきれない...ていう。
単純に、「キレイに描いてくれて嬉しい!」て思っていただければ、それはそれで描き手も嬉しいです。
ただ、過去に、天使の形をとってお客様のイメージを描いていた頃に、何度か、そのようなご感想があったというのは、事実です。
神や天使や龍といった、人以外の存在を描く...そこに接触を求めるというのは、まあ、大変です。
そして、生きている人の守護に接触していくのは、それとはまた違った大変さがあります。
もちろん、好きなことだから、できてます。
どんな仕事でも、楽しいこともあればキツい辛いこともある...それと同じです。
でも。
できあがったモノを受け取ってくださるにも、やっぱり、それなりの覚悟が要ります。
そこんとこ、ひとつ、よろしくお願いいたします。
呪いに呪われたままでいるのか、いないのか。反応した時こそ、ただ拒否するよりやることがある
誰かの言葉とか、文章とか、歌とか、写真とか、絵とか。
いろんなものが、刺激になる。
何がどんな刺激になるかは、自分次第。
それは、「そのモノ」のせい...というよりは。
自分の中にある、そこに反応した記憶や感情の賜。
同じものを見ても無反応な人間もいる。
世の中の全員が、自分と同じような反応をするわけじゃない。
バックボーンが違うとか、環境が違うとか。
そんなことを挙げてみて、反応しない人と自分とでは全然違う...と言いたくなるのも確かにそうだろう。
けれど、「自分と全一から百まで同じ他人」など、この世のどこにも、いはしないのだ。
全員が、違った環境で、違ったバックボーンを生きている。
それらが似通った人同士は、確かに、似た反応を起こしやすいとは言える。
そして、似通った人同士は、近いところにいる確立も高い。
そうした「半径5M圏内」の事情を見て「ほら、みんなそう思ってる!」て判断するのは、ちょっと待て。
その反応を、当然として。
そこにあるものを、当然として。
みんなも当然そうだと、認識して。
「そのことを、更に自分に定着する」
それは、あなたが忌み嫌う「呪い」を、より強化しているだけだ。
せっかく反応したのだから。
その反応の奥底に何があるか...ってことと向き合ってみればいい。
あそこがおかしい、性別が違う者がなりきれてないからおかしい、目線がおかしい。
そんな風に、相手の非ばかり追求していたって、自分にかかった呪いは解けやしない。
その呪いは、誰がかけたか...っていったら。
自分だから。
自分がかけた呪いは、反転させて使うのが一番。
生きていく、という過程は、自分で作るしかないのだから。