呪いに呪われたままでいるのか、いないのか。反応した時こそ、ただ拒否するよりやることがある
誰かの言葉とか、文章とか、歌とか、写真とか、絵とか。
いろんなものが、刺激になる。
何がどんな刺激になるかは、自分次第。
それは、「そのモノ」のせい...というよりは。
自分の中にある、そこに反応した記憶や感情の賜。
同じものを見ても無反応な人間もいる。
世の中の全員が、自分と同じような反応をするわけじゃない。
バックボーンが違うとか、環境が違うとか。
そんなことを挙げてみて、反応しない人と自分とでは全然違う...と言いたくなるのも確かにそうだろう。
けれど、「自分と全一から百まで同じ他人」など、この世のどこにも、いはしないのだ。
全員が、違った環境で、違ったバックボーンを生きている。
それらが似通った人同士は、確かに、似た反応を起こしやすいとは言える。
そして、似通った人同士は、近いところにいる確立も高い。
そうした「半径5M圏内」の事情を見て「ほら、みんなそう思ってる!」て判断するのは、ちょっと待て。
その反応を、当然として。
そこにあるものを、当然として。
みんなも当然そうだと、認識して。
「そのことを、更に自分に定着する」
それは、あなたが忌み嫌う「呪い」を、より強化しているだけだ。
せっかく反応したのだから。
その反応の奥底に何があるか...ってことと向き合ってみればいい。
あそこがおかしい、性別が違う者がなりきれてないからおかしい、目線がおかしい。
そんな風に、相手の非ばかり追求していたって、自分にかかった呪いは解けやしない。
その呪いは、誰がかけたか...っていったら。
自分だから。
自分がかけた呪いは、反転させて使うのが一番。
生きていく、という過程は、自分で作るしかないのだから。
基準となるものが有限であることと、損得に神経質という民族的な思考の方向
日本は古くから農耕を主にして生きてきた民族の国。
きっと、だからこそ、日本人は「損をする」ということに神経質なのではないだろうか。
農耕する上で絶対に必要なのは、まず、土地。
この広さが、耕作量をほぼ決定する。
土地の質も影響は大きいが、それは改良することができる。
しかし、土地は、拡張したかったら人のものを借りたり譲り受けるか、まるで未開の場所を探し出して切り開くしかない。
集落の中で優良な場所が開いていることは無いから、人から譲り受けることができないならば、外へ出て行くしかない。
結局、「その囲いの中」において、「少しでも多く確保する」思考にならざるを得ない。
そんな、民族的な思考の向きってものが、あるような気がする。
見返りなく人に分ければ、自分が確保できる分が減るだけなので、損。
少しでも人より多く確保することができれば、得。
人口が減少し始め、家や土地が徐々に、余り始める。
そんな時に、「貨幣経済ではない時台」の兆しがハッキリしてきた。
損しないことが重要だった時代も、変わり始めている。
損か得かに左右されない価値観。
有限のものをいかに取り合うかではなく、必要な時だけ手に取り済めば放す。
決まった容積の中にどれだけ効率よく詰められるかではなく、どうやって次へ循環させていくか。
あらゆることの基準や指標が、今までの世界と変わりつつある。
平成が終わろうとしている。
次の時代に生まれてくる子達は、どんな世界を創っていくのだろう。
今日は節分明日は立春。旧正月は16日
東洋の占術で、よく「節分で区切る」というのがある。
節分までは、前の年として考える。
節分翌日=立春から、翌年として考える。
たとえば今年なら、今日までの誕生日の人は「酉」と考えられ、明日からの人が「戌」と考えられる。
この区分は「二十四節気」だ。
国立天文台暦計算室の「こよみ用語解説」からの引用を貼っておく。
二十四節気(にじゅうしせっき)は、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して決められている。
太陰太陽暦(旧暦)では季節を表すために用いられていた。
また、閏月を設ける基準とされており、中気のない月を閏月としていた。
全体を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けて、節気(せっき)と中気(ちゅうき)を交互に配している。
二十四節気は季節変化を表す指標=太陽暦の要素です。 太陰太陽暦では二十四節気を使って季節が大きくずれないように調整します。 二十四節気を使うと年の途中でも季節のずれを修正することができます。このようなうるう月 (閏月) の置き方を歳中置閏といい、逆に言えばそのために二十四節気が考案されたわけです。 二十四節気の基点は冬至であり、古来より冬至を観測することで暦を正していました。
日本は農耕国のため、雪解けとなり新しい耕作のサイクルが始まる春が重要視された。
立春、立夏、立秋、立冬のうち立春を最も重要とし、特にこの区分を「節分」と指すようになった。
正確には、節分は各季節ごとにあるわけだが、単に節分と言えば2月のこの節目を指す。
現代では、2月しか意識されないと言ってもよい。
この新しいサイクルの起算日を指して「新しい一年が始まる日」とも呼ぶわけだ。
太陽太陰暦の正月=1月(睦月)は、立春後に一番最初に来る新月の日のこと。
今年はそれが2月16日のため、この日が睦月朔日/1月1日となる。
現代人の感覚では、正月=元旦=1月1日なので混乱しがちだが、立春は旧正月ではない。
専門的な話になると、かなり複雑で難しい。
私もあんまり理解してない。
理解していないながらも、混同もしないように気をつけている。
(というか、混同しないよう気をつけるようになった。この数年で)
私は現代人なのでグレゴリオ暦による新年を、普通に新年として考える。
しかしながら、神ゴト的考えに沿う場合は、一年の起算とされる立春と、睦月朔日の両方で考える。
だから、氏神様やよく参拝する神社は普通のお正月に初詣する。
ご神事ではあるけれど、季節行事の感覚で。
そして、伊勢には立春後に行くことにしている。
季節行事ではなく、ご神事としての感覚に大きく寄って。
もちろん、このあたりは、現代においては単に個人的な流儀という域の話ではあるが。