死後の世界を信じようと信じまいと、あなたは先人が生きていた証明そのもの
宗教観の違いもあるし。
不可視の世界への信頼感の違いもあるし。
人それぞれ...といったら、これほど「人それぞれ」のジャンルもないだろうな、って思うのが、死後の世界への感覚。
私は、見えない世界と否応なく関わることになったけど「実はそんなに信じていない」派の一人。
信じていないのは、見えない世界があるかないか...ということではなくて。
神がいるかいないか...ということでもなくて。
守護霊(守護天使でもなんでも呼び方はそれぞれで)がいるかいないか...ということでもなくて。
輪廻転生があるかないか...ということでもなくて。
そういったものが、どのように、今生きている人が生きている世界に関わってくるのか...という、その手段というか。
その手段を私物化する人間というか。
とりわけ、自分の上に降ってきてるように感じる伝令やら、なんやかんや...やら。
要は。
「今生きている人間が発する、見えない世界についてのウンチク」
の多くを、信じていない...ということ。
結局誰の言うことを採用するか...という問題だ、と私は常々思っている。
アチラの○○氏が言うことは全く採用する気になれないし、なんなら話にならない。
でも、同じようなこと言ってるように見えるこちらの方達が発する言葉は、とてもすんなり受け取れる。
そんな感じ。
だから、結局は、「誰を信じるか」という話になる。
鰯の頭も信心から...ということわざもあるけれど。
受け取る側の感じ方一つだな、って思う。
「どのように受け取らせるか」というのは、発信者の考えるところで。
実はまるで嘘っぱちを「うまく信じさせる」術に長けているのが、エセ教祖だったり、エセスピ伝道者だったりするわけで。
そういうのにひっかかって深みに入る人達もたくさんいる。
自分自身がそうならないように、実に慎重に、気をつけてもいる。
そうしていると。
自然に、流れって、偏っていくのだ。
同じ神の話や、龍の話をしている人達にも、まるで相容れない説を広めている人達もいて、そういう人達やその説を信じて指示されたように何かしている人達とは、相容れない。
別に流派があるわけではない(いや、作っている人達もいるかもだけど)けれども。
自然に、信じて受け入れる人達の流れは、決まっていく。
神の言葉を人につなぐ仕事をしている人の中にも、死後の世界観は大きく違う場合がある。
人は死んだら光になる(個人の意志や記憶は消える)と言う人もいる。
その人の世界では、そういう風に捉えるようになるに至る出来事がたくさん起きてきて、結果としてそのように考えるに至るのだ。
同じように。
死後の人は肉体がなくなっただけで、個々の人格的な要素や記憶の要素は変わらずあり、同時に見えない世界の仕組みを知る...と説く人もいる。
肉体のある時よりもずっと幸せ(苦痛などがないため)だと。
人は、この苦難に満ちた三次元の世界に、なぜ、生まれてくるのか。
「この世には、チャレンジするために生まれてくるのだ」
そんな説を聞いたことがある方もおられるのでは?
死後の生活が幸せで安らぎに満ちているのだ...とすると。
確かに、この三次元の世界に受肉してくるというのは、そもそもチャレンジでしかない...と、思える。
そう思えば、この世界では「成長する」ことがこれほどまでに重要で、意味を持つことだ...というのは、すんなりと納得できる。
納得するしかない。
私は?
死後の世界。
見たことがないし、行ったこともない。
だから、それを「こういうものですよ」とは、言えない。
死んだらわかるから、いいか...と、思っている。
でも、この世界に今も生きている人に、以前生きていた人から、伝えたいことがある...という時があるのだと。
そういう時、仲介できる「今生きている人」がいるのだ、と。
そのことは、かなり、よく理解できてきた。
それらの「世界の構造」がどうであれ。
そういう現象は実際にあるし、仲介できる人もいるのだ。
2018年1月31日。
東京で開かれた「公開ミディアムシッティング(霊視)」というものに、同席させていただいた。
以前この世に生きていた今は肉体のない人から、関わりのある今生きている人へ。
ミディアム(霊媒)を通して、伝えたいことが伝えられる。
そんな現場。
2時間のその公演の様子はノーカットでビデオ撮影された。
ミディアムは、大阪の奄海るか先生。
私はスタッフとして参加し、ビデオが止まってしまっていないかを時々確認しながら拝見していた。
公演が終わってお客様が席を立った時、ビデオを見たら、バッテリーが切れる寸前だった。
るか先生の昨日のレポ記事
伝えたいことがあって訪れた「あちらに行った方」と、時にはその方の記憶が薄れていたり実際には会ったことがない血縁だったりの「今生きている人」。
るか先生の友人の私は、彼女のことをとても好きな一人だ。
しかし。
もしそうでなくても、あの会場にいれば、あれが仕込みなどではない「リアルな出来事」だと、わかるだろう。
亡くなった方達は、生前の関係がどうであれ、愛しかない。
そんな風に伝えている、サイキックミディアム奄海るか先生。
「もしかして、あの人?」
と、おっかなびっくり自分の縁者ではないかと手を挙げる人の様子を見ていても。
最後まで自分の縁者と確信を持てなかったにも関わらず、話を始めるともう納得するしかなくなっていく人達の様子を見ていても。
少なくとも、こうして話が成立する&穏やかに過ごしていると知ることもできるだけの情報をもたらしてくれる「向こうへ行った人達」がいるのだと。
そこは、そのまま、受け取れる。
私には、会ったことがないどころか私がこの世にいることすら知らずに他界した父方の祖母と伯母、母方の祖父がいる。
もしもその二人が来られたとして。
特徴を言われても、わからない自信がある。
生前関わりがあった方でも、特徴を言われてもわからないかも知れない。
でも、そんな風に「今生きている私」は、それらの人達がこの世にいたことの証明でもあるのだ。
ミディアムシッティングというのは、日本では馴染みがないのだけれど。
心霊研究の本場とも言える英国では馴染みのある方法なのだそうだ。
日本で今、公開してやっているのは奄海るか先生一人だと思う。
きっと、これから、多くの人が必要とするようになる。
名古屋でも開催したいなと、画策してみよう。