「初詣」と「狭間の時」
初詣って、だいたいの人は行くよね。
うちも行くよ。
それも、何社も。
ルートは決まっていて、それをずっと続けている。
実際には2月まで続いていて、節分明けにお伊勢参りして、そこで一旦「年始の参拝」は区切り。
伊勢に参るまでに気が向いて行きたくなったところには、適時行く。
去年、戸隠と諏訪に参拝した時に、「これで一通り、行くべき地は踏んだ」てなったので。
以後は、決まった参拝は一連の年始の参拝と、適時の津島神社でいい感じ。
他は好きな時や必要な時に。
だけど、私は、初詣って別にどうしても行かなきゃならないものじゃないと思っている。
私には参拝も仕事のうちっていう面があるから行くだけ。
初詣って、たいていみんな、何らかの願い事をしていくと思う。
数円か、せいぜい百円程度のお賽銭で、すごいたいそうな願いを申し立てる人もきっといる。
いいと思う。
自由にやればいい。
そういう時くらいしか参拝しないとしても。
以前は私も、「こんな時ばっかり都合良く願いを聞いてくれって言うんだもんなあ」なんて、苦く思っていた。
今は、動機はどうあれ、行くってこと自体はいいことだ...と思っている。
まあ、はしゃぎすぎて無礼過ぎるのはどうかと思うけども。
その分は、どこかで痛い思いすることになるだけだし。
近所に住んでる年齢のわからない爺ちゃん婆ちゃんみたいなものだ。
普段はいるかいないかわからないくらいの存在感なのに、なぜか時々急に大きく感じることがある...ていう。
悪いことしたら叱るし、頑張れば褒めてくれるし、時にはご褒美もらえることもある。
気が向いたら肩をもんだり、お茶につきあってあげると喜ぶ。
神様も、そんな感じ。
特に、人の近くにいる神様はね。
日本の神様は、人と地続きの存在だから。
逆に、へんにありがたがる人達の方が、ちょっと怖い。
私も空の写真をよく載せるけど。
「龍様が!」
とか言われるとぞっとする。
もちろん、単にそう見える形状に写っただけじゃなくて、本気で「入ってる」こともあるんだけど。
なんか、そんなものばっかりをありがたがって、妙に神聖視している人達は、薄ら寒い。
雲を消せるっていうのを自慢していた人もいたけれど。
無意味に干渉すんのやめろや、としか思わない。
雲を消せる自慢しながら、龍っぽいカタチに写った雲の写真はありがたがる。
何も知らずにただ願い事したい時だけ行く人達よりも、下手に知ってて、感知もできるって人の方が始末が悪かったりもする。
パワーがあるからって、一般人が立ち入ってはいけない場所に入って行ったりね。
あなたにとって大事なことって何?と聞きたくなる。
新年は区切り。
私は節分開けの方が本当の新年だと思ってるけど、現代では1月1日だから、それはそれ。
私の感覚では、節分以前の1月に行く「俗に言う初詣」は、一年と一年の狭間の時...大祓と節分の間だから。
その狭間に、決まったルートを巡ってるような感覚。
祈願とか決意表明とか宣言とか、そんなことでもなくて。
お礼だけ述べてくる。
その地に座す、そのことへのお礼。
自分が正しいとは思ってない。
こうだと感じることをやるだけだ。
そういうものだから。
冬至から半月くらいしか経ってないのに、もう目に見えて日没が遅くなってきた。