和の神に聖邪は無い
「神も魔も同じものに自分には見える」
という内容のコメントを拝見した。
このご意見には、同感である。
キリスト教的二元論(これが、おそろしくおおざっぱな表現であり乱暴な枠取りだということはわかっているつもりだが)でいけば。
神に対抗するものが「魔」と呼ばれるのだろうけれど。
和の神というのは、そもそも、「聖」ではない。
和の神は、役割であって、聖邪はない。
恵みの太陽も強すぎれば干ばつとなり、恵みの雨も強すぎれば濁流となる。
表裏一体なのが、和の神。
そこには、絶対的に正しい/間違いの区別はなくて。
聖なるもの、邪悪なるものの区別もない。
強いて言うならば。
人智を超えた力。
莫大なエネルギー。
時空を超えた存在。
神を、高潔なるものであるとか、非の打ち所のない全能なる存在である…とかいった視点で日本の神々を見ようとすると、無理がある。
時々、そういう人達を見かけるけれど。
それは、「無邪気だなー」と感じる見方だ。
そしてまた、「波動が高い」という固定観念で見るのも、違和感がある。
これは同時に「波動が高い=高貴/優れたるもの」という観念にも言える。
神が高貴で人が卑しい、というのも、違う。
というか、神も人も、本質的な違いはない。
この三次元が主に人の世界である、というだけの話だと私は思っている。
見えないし捉えられないけど物質としても存在はある…とも、思っている。
現在の人間が計測、実証できている物質だけが全てではない。
熊野本宮 大斎原
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