感謝って、最後の一滴になった「きっかけ」だけではないよね…という話
感謝しましょう…って、言いますね。
うまくいってないと、「感謝が足りない」とか言われたりもしますし。
それはいいけど。
感謝って、しなさい、って言われてするものじゃないよね。
しなさい、って言われてできるものでもないし。
したくてするもの…とも、ちょっと違うし。
(それだと、感謝するために何かをする…ってことになって、なんかヘン)
感謝は、勝手に湧いて来るものだと私は思っていて。
水瓶が、ある時満タンになって、表面張力を破って溢れ出る。
そういう、ものだと思っていて。
溢れ出るきっかけになった「最後の一滴」が何だったにせよ。
それまでにずっと、溜めてきたものがそこには、すべて詰まっていて。
けれど、意識に残るのは、「最後の一滴」のきっかけになったことや人ばかり…って。
そんなことに、なってるような気も、するんだな。
しょっちゅう感動している人は、ためる瓶が小さいし。
だから、中身はいつも、入れ替わってて新しい。
なかなか感動しない人は、逆に瓶は大きくて、なかなか溢れない。
だから、中身は熟成されている。
溢れ出た時の濃さは、たぶん、瓶がちいさい人より、ずっと、濃い体験になると思う。
たびたび感想して表面張力が破れている人は、その経験に慣れている。
だから、そうなる気配を察するし。
そうでない人は、だいたい不意打ちになるので、余計に記憶に刻まれる。
どっちがいいとか、悪いとかいう話ではなくて。
感動とか、湧き上がる感謝というものも、人のタイプによって、表れ方も深さも濃さも、まるで違ったものなんだろうなぁ…という、感慨。
瓶…渋い!