人も物事も世界も、刻々と変わっていくものなのさ
変わらないことがあるとしたら 皆変わっていくってことじゃないかな
なーんていう歌詞がありますが。
これ、本当のことで。
不変なことは、不変なものなど何一つない、ということくらい。
まあ、不変がないのが不変である、っていうのもアレなんですが(笑)
「真理」って、けっこう簡単に使われる単語だけどさ。
実際に、本当に、真理であることなんて、ほんのヒトカケラしかないよね。
地球には重力がある…レベルのことじゃないと真理とは言えない。
時代が変わり、国や人種が変わり…比較する条件が様々に入れ替わったとしても共通して事実そうだと言えること。
真理って、そういうもの。
不変なものはない、というのは、真理の一つであると言えるかと。
宇宙全部エントロピー0になるまでは…っていう条件つきではあるけれど。
エントロピー0とかいうと、萩尾望都先生の綺麗な阿修羅しか思い浮かばない私(笑)
あの弥勒のラスボス感は半端なかった。
人なんて、コロコロと変わるものの代表です。
思想を残そうとした人たちは、本を書いたり、本当に信頼のおける弟子に口伝で残したりしてきたのだけど。
今や万民総発信に至ろうとしているご時世。
つらつらテキストを書いてボタンをポンと押せば、世界に向かって叫べてしまう世の中。
私もこうして、日々くだらないインナーワールドを吐きちらかしているわけです。
あの人も、その人も、やってます。
玉石混淆とはこのこと。
カオスだね。好きだよカオス。
数年前…下手したら先週。
自分が書いたはずの文章を読んですら、「ううーむ…」って、眉間にシワ寄っちゃうくらいに、どんどんと立ち位置は変わっていくし、見方も変わっていく。
好きなもの、気にいるもの、フィットするもの。
次々と、移り変わる。
そんな中で、温度も距離感も信頼も好意も、全てが変わらないでいる人間関係なんて。
あろうはずがない。
恩というのは。
受けた側が、思うこと。
受けた側が、受けたと感じた人に対して、抱くもの。
逆ではない。
自分が変わる、その間に。
恩人だったはずのその人も、変わる。
より結びつく場合は、非常に幸運。
ほとんどは、関係は薄まるか、悪化していくもの。
なんでそうなっちゃうか?
それが、自然だからです。
固体として、成体にまで成長してからすらベタベタと一緒に居続けるのは、人間くらいのものです。
群れで暮らすどうぶつ達も、ずっと一緒の場合はあるけれど、親と子としてではなく「生きるための集団」として、共同生活をしている。
手を離れれば、同じ群れの中にいたって、固体同士の関係でしかなくなる。
生物としての姿は、そういうもの。
かつて恩を受けた人とは、いつか疎遠になる。
時には最悪の関係になる。
殺しあうこともあるかもしれない。
そんな時。
善良な人ほど、そのことに罪悪感をもって、動けなくなってしまう。
そんな必要、ないからね。
離れること、反することに胸が痛むなら。
その、受けた恩を、もっと大きな広い世界に向かって返していけばいい。
該当する一個人ではなく、自分が恩を受けた出来事に関わる世界へ。
背景へ。
社会へ。
個人と個人の関係は終る時が来る。
それは必然だから、避けることはできない。
避けようとする必要もない。
受けた恩は恩として大切にすればよくて。
何らかの方法で返したいのならば。
個人にではなく、社会へ還元。
でね。
もし、その「元恩人」から、返せと要求されたなら。
その相手は、もはや、恩人でもなんでもない。
単なる、高利貸しみたいなもんです。
借りたものは返すべきと思えば、元金は返してもいいかもね。
もし、まだ返してないのならね。
それを言い出したのなら、その相手は、単に「目下の者に貸しを作ってやった」というふうに考えてるのです。
与えたつもりなんてなかったってこと。
その時点で、「なーんだ」って思ってもいいよ。
私は、そう思う。
義理ある人たち、恩人たち。
そういう人たちから離れる時は来るものだ。
そう、日頃から、思っておけばいい。
実際にその時がきたら、断固として、離れよう。
そして、受けた恩は、もっと広い世界へと返す。
つまり。
次は自分が、誰かに、自分が与えられるものを惜しまず差し出すこと。
そうして、世界はまわっていくのだ。