エッジをさらに削り出そう。 均してしまうのは、もったいない。
これは、己に向けてたびたび刷り込むこと…だったりする。
要は、「丸くなるな」ってこと。
人間関係とか、生活する上での軋轢を減らすとか。
そういう方向に丸くなることは、いっこうに構わないと思う。
その方が無駄なストレスは減る。
(もっとも、その方面に関しては私の感覚は「丸くなる」より「流れをキレイに」の方がフィットする)
でも、何かを作るとか表現するという面については、丸くなったらダメだと思っている。
作るものや表現したいものが「なごみ」「ほっこり」な方向ならば、とがってたら逆効果かも知れないけど。
私の方向はそっちじゃない。
今でこそ、それがハッキリわかるけど、少し前までは、それもイマイチ把握できてなかった。
不思議なことに、絵だけ描いている時は、それがよく見えてこなかった。
板を焼く、土をさわる、紙を漉く。
筆を使わないで作るものが増えるに従って、クリアになってきた気がする。
たぶん、そのうち、金属を叩き始めるんじゃないかと思う。
けっこう本気で、そう思う。
立体を作ることには、全く興味がなかった。
方向感覚がない人間って、空間把握の能力が低いそうな。
私の場合、そのことに疑問の余地ナシで、これくらいヒドイ方向音痴も珍しいと言われるわけだけど。
3Dのものの大きさや厚みは全然把握できないし、切り口や、落ちる影の形状なども全然、わからない。
なので、立体表現は苦手だった。
学生時代には彫塑も木彫も課題にあったけど、天敵だと思ってた。
半立体をやれ、というイメージが降って来たのは、去年の夏。
で、それっぽくなったのが、これ。
△こて絵モドキ【白龍】
Webギャラリーの紹介ページ→http://art-hiro.com/02dragon/310/
これは、まだ、半立体と言ってもパテで少し盛り上げただけ。
もともと降って来たイメージは、こんなのじゃない。
陶芸の方が、だんだんと、「あ、やりたいのはコレだ」というのが見えてきて。
やっと、もともと降って来た「半立体の絵」に近づけられる感触が出てきた。
でも、上の「こて絵モドキ」の白龍は、「エッジをなめらかに」したくなる段階をすぐに超え、向かいたい方向は「均一な質感」とは違うところにある…というのを実感させてくれたので、習作としては成功したと思ってる。
「エッジをさらに削り出し、際立たせる」
私の場合、それは、絵とかモノ作りの方向性。
けれども、このことは、どんな人にでもどこか、当てはまる面があると思うのだ。
既製品の枠の中に納めるために、カドを切り落としたり、尺を切り落としたり、突起を削り落としたり。
自分の特性を、そんな風にして、社会枠の中に無理に納めようとすると、もともとの自分のカタチがわからなくなる。
今の社会で言う「個性」は、キレイな規格サイズに整えることが前提になっている。
整った規定のものに装飾を施して、それを「個性」と言う。
でも本来は、そんなもんじゃないだろう。
本来、そもそもが凸凹してたり、歪んでたり、異素材混入があったり、質感が違ったり…っていうのが、個性であって。
それを、どうやって「社会枠からも見えるように示す」か…っていうことだと思うわけ。
トゲトゲの人は、もっとトゲトゲに。
ジャリジャリの人は、もっとジャリジャリに。
より、強調する。
均一になんて、なるな!
そのエッジをさらに磨いて、その上で、社会に「どうよ」って見せればいいのだ。
…そういう私は、実のところ「ほっこりするようなもの」を課題に出されて困惑していたりもするのであった…(笑)
ホンマ、どーしよっかねえ………。
挑戦はするけどね。
世界は広がるから。
それを私に作れと言うからには、作れる能力はある、ということだから。
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