旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

今年も残りあと3日

今年はなぜか、あんまり、年末っていう気がしない。

気がつけば、残りあと3日。

でも、別にいつもと変わらない日常。

 

 

年末なんだなあ...って感じるのは、車の多さ。

なんかみんなやけに、焦ってるような感じがすること。

あと、役所ね。

今日が仕事納めだったんだよねー。

行って気がついた、という。

 

 

そうは言っても。

今年は、いままでにはなかったことが、いくつか起きていて。

それを、「たまたまこうなった」で終わらせないために、検証と来年の計画ってものが大事になる。

そういう意味では、この年末年始は大事な時。

 

 

それから。

来年からは、制作の仕方も少し、変えていくつもり。

 

今私は、オーダーメイドメニューばかりの構成になっている。

それを、来年からは変えていく。

 

龍印画も、今までは大小両方ともフルオーダーだったのを、小サイズはセミオーダー品にする。

フルオーダーの龍印画は、今の「極」メニューだけになる。

サイキックソウルアートはフルオーダーしかできないので、あれはそのまま据え置き。

 

 

あと。

ちょっと思い切った行動になるけども。

海外通販の準備を今している。

 

 

陶芸窯も買うからね。

家庭用電源で使える小さいものではあるけれど、まずはそこがスタートなので。

これについては、しかるべき時期にブログイベントを企画している。

 

 

あかり玉も、「ひょうたんありき」ではなく、「ひょうたんも使える」という感じに、いろんな素材で作っていく。

「瓢箪ランプのあかり玉」ではなく「あかり玉」の中にはひょうたんもあれば陶器もあれば、他の素材もあるよ...という。

 

 

 

こういうのには、理由があって。

この2、3ヶ月前あたりから徐々に、感じていたのだけど。

どうもね...今まで描いていた描き方とは違ったテイストを要求されているんだよね。

特に神絵は。

今年は全然神絵描いてないのだけど。

来年は、そっちも手をつけないといけない感じ。

神絵は最近ほんと、手が動かなくて。

ちょっと手をつけては、なんかちがーーーーーーう!ってやめる...が続いている。

絵が見えないわけじゃないのだけど。

手を動かしはじめると、「これじゃなーーーーーい!」ってなる。

そこいくと龍は楽というか.........

楽と言ってたらいかんのだけど。

私は龍は描かないよ、って言ってたのが懐かしい。

 

ともかく。

神絵を模索しなきゃならない分だけ、他のところを安定させていきたいな、って思っているのだ。

まあ...安定って言ったって。

私のやることは、いつも安定なんかしないのだけど。

気分の問題(笑)

 

 

私はとても強欲なのだ。

最近、それがものすごくはっきりと出た出来事があった。

飽き性だからあちこちふらふらと、ちょっとずつ手を出しては中途半端...なんだと思っていたけど。

強欲だからだったのだ。

 

 

来年の私の星回りは、結果が出なくても気にしないこと、って言われていて。

ということは、結果が出にくい星回りだ...ってことだよね。

新しい何かを入れるのは難しい、とも言われている。

 

いやいや。

問題ない。

結果が出にくい...なんて、今までずっとそうだったし。

新しい何かは、もういらない。

全部、今までの延長上にあるものを深掘りしたり、掛け合わせるだけだから。

 

バブルが崩壊したって言っても私には何も影響がなかったのと同じように。

星回りが良かろうが悪かろうが、今までの人生、大きく影響が出た記憶がない。

いい日もあればそうでない日もある。

それだけの話。

 

そんな中でも、今月はとある目標をクリアすることもできた。

クリアは難しいんじゃないかと思っていたことで。

それを偶発的なもので終わらせないように、来年の方向を今、かなり具体的に考えている。

 

そんな、2017年12月28日。

 

 

 

先日、窯から出てきたテスト品の一部

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人から名や技能や権限を譲り受ける...ということ

人から何らかの名前や技能などを譲り受け、引き継ぐ...というのは、とても軽くほいほいとできることじゃない。

私の世界では、それが道理だ。

 

誰かが研鑽し、研ぎ澄まし、体系化し、再現できるところまで落とし込んだもの。

それを譲り受ける。

 

なぜか、それをとっても「お気楽」に、「ライト」に、ぽんぽんできてしまう人も、世の中にはいる。

いや、むしろ、「もらえて当たり前」と思ってすらいるかのような。

 

ほんの少しの金銭や数時間...せいぜい数日を対価に。

長くかかって創り上げてきたものを、「それを支払えば、当然もらえる」と思う。

 

私には、なかなかに、理解しにくい感覚だ。

 

 

習えばできる。

多くのスキルはそうだと思う。

 

しかし、センスは習って身につくものじゃない。

基礎的な能力値や、向き不向きの問題も、習ったら解決するものではない。

 

どんなことでも習えばすぐに、自分も仕事にできる...という発想が、なかなかに理解しにくい。

 

 

私はどっちかというと、欲しくても受け継げないようなものを習得したいと思ってしまう人間なので。

無理ゲー承知で、やってみる...食いついてみる。

そういうことも、少なくない。

ただ、そういう時、それを「そこそこ、できるようになった気がする」程度で、己に許可を出すっていうのは、難しい。

また、そうはしたくない。

 

指導者が、教え子に名前や権限を与える。

 

その意味を、現代人は少々、軽く考えすぎているんじゃないのかな。

そんな風に思うことが、よくある。

 

 

あの講座は高い。

そんな風に揶揄されるクラスも世間には多い。

実際に、内容と比較して薄すぎる講座も、多いと思う。

でも。

私は、どんな講座であっても、全員が必ずモノにできるわけじゃないと考えている。

どれほどに難易度の低いものであれ。

どれほどに、一般化されて体系化されて再現性を高められたものであれ。

一定の、モノにできない人というのは、存在する。

それこそ、2:6:2の法則だ。

 

その、モノにできない一定数の人を指して「ほら、あんなに多くの、受けても何もできないままの人達がいる」といって、その講座をクズだと言う。

というのも、どうなのかな、って。

 

まあ、もちろん、受講生9割がモノになってないような場合は、論外なんだけど。

 

 

そんなことが起きるのも、そもそも、

「人が創り上げたもの」を「条件さえ満たせばもらえる」というのを当たり前のこととして考えているから...なんじゃないだろうか。

 

 

指導者から名をもらう。

技能を使う許可をもらう。

 

それは、その指導者の人生の一部を受け取ることだ。

 

その人が心血注いできた何らかの仕組みを。

それにまつわる様々な苦楽を。

 

そして、そこで生じる責任を。

 

 

○○万円払って△△日講座を受ければ、それもらえるんでしょ?

 

そんな風にぽんぽんと譲られることができるようなモノばかりじゃないよ。

特に、見えない世界に関することはね。

 

 

 

こんな重苦しい冬の空も好きだ。

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人間は錯覚の世界で生きている

...とは、あるオンライン講座の説明会の中で登場したフレーズ。

 

 

ああ、まったく、その通りだ。

人間は、錯覚が織りなす世界で、皆がおのおの違った景色を見ながら、

「共通認識」

があるものという前提を無言の内に形成して、

それがお互いの大いなる勘違いであることには滅多と気づかずに、生きている。

 

人間は、基本的に孤独な生き物だ。

と、私は常々、考えている。

 

 

厭世的な考え方かも知れないけど。

本当に共通認識が生み出されることは、なかなかに、得られる機会ではない。

少なくとも私は、そういう認識の元で半世紀生きてきた。

 

すごく親しい人との間にも、前提に齟齬があったのだという発見が起きることもある。

 

特に親しくない相手となら、なおのこと。

 

 

そんな観念をベースにしているから。

私は、人から自分が思ってもみない解釈をされたとわかっても、訂正しなくては!と躍起になることは滅多にない。

 

まあ、いいか。

 

て、思ってしまう方が多い。

 

 

比較的気安い間柄の人の場合だと、訂正することもある。

訂正する、という行為そのものが面白いコミュニケーションになることもあるし。

親しい間柄の相手に思い違われていると、その情報はもっと遠くへも伝わりやすいので。

また、お互いの構築している世界観に重なる部分が多いとわかっているから「親しい」のであるから。

勘違いも、解くのは比較的、楽なのだ。

 

世界観が遠い相手の勘違いは、さらなる勘違いを生み出すだけで、何も解決しないことが多い。

 

もちろん、それも私の人生観であって、事実どうなのかは、誰にも確定はできない。

 

 

 

錯覚が多い

という考え方一つとっても、人との関係性において半分以上は錯覚だ...というのがベースにあっての「多い」と、そんなこと考えたこともないという人の思う「多い」は、おそらくまるで基準値が違うはず。

 

「錯覚していることって、多いよね」

「そうかもね」

 

こんな会話一つとっても、思い浮かべる「錯覚の頻度」はもちろん、乖離の度合いなども、双方の想定はまるで違うはず。

でも、「多いよね」「そうかもね」と。

それぞれが非言語の部分を補完して、会話は成立する。

成立したことによって、なんとなく、共通認識ができたように感じるが。

そもそも、それ自体が錯覚なのだ。

 

 

と、いうのが、私の人生観。

 

 

喋る私には、なかなか、こういう風にその場で立て板に水のように言葉にすることが難しい。

書かせればいくらでも書くのだが。

 

オンライン講座で意見を求められたり、感想があれば...と言われても。

ほんと、その場では、特に言うべきことが見つけられなくて。

主催者さんにも、司会者さんにも、他の参加者さんにも、なかなかに申し訳ない気分になる。

 

しかし、今日の説明会は面白かった。

RGBとCMYKの原理とか、初めて知ることもあったし。

 

その場ではなかなか言葉が出ないのだけど。

何も思っていないわけではなくて、アウトプットするまでのタイムラグがとても長い...という。

 

言葉に出す瞬発力の高い人は有利だなあと思う一方で。

じっくり、自分一人の世界に戻ってから、井戸の底から水を汲み上げるようにしてアウトプットしていくのも、面白いものだよ。

 

にしても。

リアルタイムに口から出すアウトプットの回路がもう少し、開いてもいいんじゃないかなあ~。

 

 

 

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言縁百式などでメッセージおろしをする時も、手で文章に書かないと出てきにくいというめんどくさい体質...。

口からすらすら出てくるようになればいいのになあ、と思うけど。

そこは、まあ、タイプの違いってことでね。

 

 

 

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