人間は錯覚の世界で生きている
...とは、あるオンライン講座の説明会の中で登場したフレーズ。
ああ、まったく、その通りだ。
人間は、錯覚が織りなす世界で、皆がおのおの違った景色を見ながら、
「共通認識」
があるものという前提を無言の内に形成して、
それがお互いの大いなる勘違いであることには滅多と気づかずに、生きている。
人間は、基本的に孤独な生き物だ。
と、私は常々、考えている。
厭世的な考え方かも知れないけど。
本当に共通認識が生み出されることは、なかなかに、得られる機会ではない。
少なくとも私は、そういう認識の元で半世紀生きてきた。
すごく親しい人との間にも、前提に齟齬があったのだという発見が起きることもある。
特に親しくない相手となら、なおのこと。
そんな観念をベースにしているから。
私は、人から自分が思ってもみない解釈をされたとわかっても、訂正しなくては!と躍起になることは滅多にない。
まあ、いいか。
て、思ってしまう方が多い。
比較的気安い間柄の人の場合だと、訂正することもある。
訂正する、という行為そのものが面白いコミュニケーションになることもあるし。
親しい間柄の相手に思い違われていると、その情報はもっと遠くへも伝わりやすいので。
また、お互いの構築している世界観に重なる部分が多いとわかっているから「親しい」のであるから。
勘違いも、解くのは比較的、楽なのだ。
世界観が遠い相手の勘違いは、さらなる勘違いを生み出すだけで、何も解決しないことが多い。
もちろん、それも私の人生観であって、事実どうなのかは、誰にも確定はできない。
錯覚が多い
という考え方一つとっても、人との関係性において半分以上は錯覚だ...というのがベースにあっての「多い」と、そんなこと考えたこともないという人の思う「多い」は、おそらくまるで基準値が違うはず。
「錯覚していることって、多いよね」
「そうかもね」
こんな会話一つとっても、思い浮かべる「錯覚の頻度」はもちろん、乖離の度合いなども、双方の想定はまるで違うはず。
でも、「多いよね」「そうかもね」と。
それぞれが非言語の部分を補完して、会話は成立する。
成立したことによって、なんとなく、共通認識ができたように感じるが。
そもそも、それ自体が錯覚なのだ。
と、いうのが、私の人生観。
喋る私には、なかなか、こういう風にその場で立て板に水のように言葉にすることが難しい。
書かせればいくらでも書くのだが。
オンライン講座で意見を求められたり、感想があれば...と言われても。
ほんと、その場では、特に言うべきことが見つけられなくて。
主催者さんにも、司会者さんにも、他の参加者さんにも、なかなかに申し訳ない気分になる。
しかし、今日の説明会は面白かった。
RGBとCMYKの原理とか、初めて知ることもあったし。
その場ではなかなか言葉が出ないのだけど。
何も思っていないわけではなくて、アウトプットするまでのタイムラグがとても長い...という。
言葉に出す瞬発力の高い人は有利だなあと思う一方で。
じっくり、自分一人の世界に戻ってから、井戸の底から水を汲み上げるようにしてアウトプットしていくのも、面白いものだよ。
にしても。
リアルタイムに口から出すアウトプットの回路がもう少し、開いてもいいんじゃないかなあ~。
言縁百式などでメッセージおろしをする時も、手で文章に書かないと出てきにくいというめんどくさい体質...。
口からすらすら出てくるようになればいいのになあ、と思うけど。
そこは、まあ、タイプの違いってことでね。
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