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緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

「自分の感覚で捉えきれない規模のものに出会った時、いかにして三次元に圧縮するか」の行程について現在の所感

見えないものを定着させる、という絵の初期の頃の体験について、書いた。

大きすぎる相手を圧縮定着する、ということ…慣れが惰性にならないためのリセットスイッチ - 緋呂の異界絵師通信

 

ここから派生して、あるご質問をいただいたので、書いてみることにする。

それは、今まで……初期の頃ですら、無意識にやってた行程についての問いで。

問われて、改めてそこをイメージしてみて。

案外、フクザツなことを無意識でやってたのかも…と、思っている。

文章化する甲斐がありそうな質問だ。

 

質問の原文(掲載許可済み)

自分の感覚で捉えきれない規模のものに出会った時、それを視野なり感覚なりで捉えきろう…緋呂さんならば紙におさめる時の圧縮ですかね?

それの圧縮の感覚ですね。文字におさめるのを私はするのですが、詳しく情景を書く上で細かいディテールよりも大まかでも全体を一気にみたいので圧縮の感覚が知りたいです。

 

私は描き始める時、絵の全体像がどうなるか、まったくわからない状態でスタートする。

その時使う画材によっては、だいたいの全体像が先に見えている場合もある。

焼き絵、墨絵、鉛筆画など、主に、後から大きく変更することができないものの場合だ。

アクリルやパステルが主体の時は、後からどうとでもなる(限界はある)ので、スタート時点では一手先の行程すら不明なことがザラ。

 

今回の質問では、だいたい見えている時…をモデルに考えてみる。

 

が。

その前に、どのパターンの時でも通る「最初の行程」について、文章化してみたい。

 

ものすごい長文記事(になる予測)のため、ここから先へ進む方はお覚悟を。

 

 

 

はじめに言葉ありき

 これが、一番最初だ。

実際の行動としては、その時に描く「対象」を特定すること。

今日のこの絵は、○○神を描く…といった、指名。

 

まれに、最初に設定した対象が途中で入れ替わってしまうこともある。

できていくところを見ながら、「なんでやねん」と思うこと、しばしば。

けれど、そういう場合はもう、仕方ないので。

そのまま、手が動くに任せるしかない。

ヘタに修正しようとすると、絵そのものを捨てるしかなくなる。

(経験済み)

ただし、そういう場合は事後の疲労具合がハンパないので、できたら避けたい。

 

 

まず、光があった

言葉…対象の指定の次は、光=色である。

たとえば、最初はイエロー…とする。

手が動くに任せて、紙の上にイエローを広げる。

いい具合になる手前で、次に使う色が来る。

ピンクならピンク…でも、目で見た時に「これかな」と思っても、実際に取るとNGになる場合も多い。

色を決めるのは、完全に、手の采配。

 

モノクロの場合なら、濃い黒から始まるのか、白に近い淡さから始まるのか…という選択になる。

モノクロの場合は、「白」とは「紙の色」であることが多いので、どれくらいの黒さなのかという選択になる。

 

基本的には、その選択の連続によって、最後まで進んでいく。

 

場合によっては、行程の途中で紙の一部を燃やしたり…っていうこともある。

時として、完成後に焼いてしまうケースもある。

こういう処置は、私の自由意志でどうこうできないので、燃やすとなったら、諦めて燃やすしかない。

実際、燃やした絵も数点ある。

そこまでしないまでも、門外不出…展示不可とされた絵もいくつかある。

 

 

画材や絵のサイズは指定されている

これは、最初にイメージの片鱗が来た時(絵の対象が確定した時)に、決められる。

想定される「絵の質量」によってだいたい把握できる。

この場合の「質量」とは、物理的な重量や面積のことではなく、エネルギー量といったところ。

エネルギー量の大きなものであればあるほどに、面積も大きいものが必要になる。

つまり、エネルギー量が大きいものを小さい用紙に入れようとするには、「高圧縮」が必要になる。

ここらへんからが、冒頭に紹介した質問への答えに、関わってくる。

 

 

では、ご質問の「圧縮の感覚」について書いてみよう

実は、このことは、質問されるまで完全に、「無意識」の領域だった。

やっていることが圧縮である、と意識したのは天使絵の頃なので、かなり初期だ。

しかし、それをどうやってやっているのか…ということを、意識的に考えてみたことがなかった。

そこを質問されたこともない。

多くの人は、「色が指定されてくる」とかの説明あたりで満足する?あるいは、聞いてもわからないと納得する?

なので、圧縮の感覚、というのを質問されて、初めて、そこを考えた。

これだから、第三者の視点が入るのは面白い。

 

 

そもそも「圧縮」だと思ったきっかけと「固定化」という概念

天使を描きながら、薄ぼんやりと、

「あいつらは、ガスだ…気体だ。それを物質に定着する…氷にする感じ」

ていうのを、イメージしていた。

気体は、掴むことはできないが、大気にその粒子が存在していることは、何らかの手段でもって、知ることができる。

成分を検出するとか、匂いとか。

天使だの神だのというのを検出した機器とか聞いたことがないけれど。

存在してないとは言い切れないし、今後普通に見るようにならないとも限らない。

今のところは、それを感知するのは、個人個人のセンサーということになるかと思う。

私の場合は、描いてない時には9割休眠するセンサーしかないので、描いてない時にはほとんど感知できない。

 

でも、それを液体にまで圧縮すれば、触れられるようになる。

私は、「言語に変換する」「音に変換する」のは、この、液体化までの圧縮ではないかな、と思っている。

触れることはできるけれど、留めることができない。

水は流れてしまうもの。

器に溜めれば、どのような形状にでも保てる…とはいえ、水そのものの形状として保っているとは言えない。

だから、留めることができない。

瞬間的に消えて行く、音。

文字として書き起こせば…録音すれば「ある程度留められる」。

また、発した時点で、聞いた人の記憶にも、何らかの形で留まる。

それは、色のついた液体を流した跡…のようなものかな、と。

痕跡、というやつだ。

 

 

で、造形作品やら絵やらの物質に定着させる段階が、「氷結化」かな…と。

 

固体になれば、誰でも触れることができるし、一定条件下ではその形状や性質も保持することができる。

溶け出し、変形を始めるまで…という一定条件下。

融点はその成分によって様々なので、保持しやすいものとそうでないものは存在する。

とても繊細なガラス細工や、極細ワイヤーの造形品。

あっという間に褪色してしまう種類の染料。

触れれば変形してしまう柔らかい粘土。

吹けば飛んで消えてしまう、砂。

そういった、不安定な物質として変換されたものは、「融点が低い」のではないか。

(融点の高低が作品の優劣では断じてないので誤解なきよう)

 

音楽の場合だと、譜面に起こされた状態が、固定化された状態と考える。

演奏する人間によってかなり再現は違ってくるけれど、要素は譜面に固定されている。

というか。

譜面にされた音楽を、人が演奏することで様々に変化する…というのは。

絵や造形品にはない、さらに優れた性質だと思う。

言ってみれば、氷で創り出すスイーツか?

氷結化された物質を元にして創られた、かき氷やアイスキャンデー…みたいな。

 

ここまでが、「圧縮による固定化」についての、私の現在の考え方だ。

 

 

では…私はどうやって、気体→氷へ圧縮しているのだろうか。

 

上の方に書いた、「後から変更することが難しい画材」で描く必要がある時のことを、考えてみた。

 

レシピが渡される

 

というのが、一番、フィットする。

 

描くべき…固定化するべき対象を、どのようにしたらそうできるのか。

それをあらかじめ、だいたいの骨子が記されているレシピを、最初に渡される。

それは、zipデータのように圧縮されている。

 

そう、圧縮は、私がやるのではなく、そもそもされている。

ので、受け取ったら、私が、解凍しなければならない。

 

パケットを受け取り、それを元のデータに変換する。

最初の段階で受け取るデータが、大きい。

 

絵だとすると。

だいたいの完成図…色の配分とか、人物の配置とかいった設計図だけど、それが圧縮データとして一度にくる。

解凍は、スケッチや下絵を描く、という行為やら、もっと単純な「鉛筆を削る」などの準備として行う。

(そうだったのか…と今思う………)

 

だから、制作中に迷うことはほとんど、ない。

己の技術が見合ってなくて苦労する、っていうことは常だけど「ここからどうしたらいいのかな」という迷いは、このケースの場合は、ほとんどない。

最初に渡された設計図には書かれていない細部については、そこが必要になった時に追加パケットとして、届く。

それは小さなデータなので、適時、自動ダウンロードされる。

その「自動DL」が切れて、続きがなくなった時が「絵の完成」だ。

 

言ってること、イメージできる?

 

 

 

では、一手先すらわからないパターンの時、どう、圧縮しているのか…と。

いやあ、これは、なかなか。

難しい。

 

そもそも、私は、「描く対象の全体像」を最初に感知する、という行程を経ない。

最初に私が受け取るのは、対象を指定する…というかむしろ向こうに逆指名される感じ…。

「ああ、今日はアナタを描くんですね」

という、合意というか。

 

これがキーになって、「向こう側の、よくわからない巨大なもの」と、接続される。

色が、一つずつ来て、それを紙に展開していく。

その行程を、具体的イメージに変換してみるとすると…

 

細い蜘蛛の糸みたいなものを私の方から伸ばす…というか、漂わせる?

向こうが、それに、次に使うパーツを触れさせてくると、その要素が糸を伝って、手に着信する。

それが、「次は○○色」という信号として認識される。

 

そういう、感じ?

 

糸は一本じゃなく、私の余力の範囲内の数量を使うことができる。

ただし、変換される信号は「手が一対しかない」という制約上、順番にしか処理されない。

これが、「次の一手すらわからない」という状態なのだと思う。

 

一度に数色を紙の上で広げていくような場合でも、まず黄色、次に緑、次に…というように、時間差はある。

本当に同時に数色を使うことはできない。

こういうのが、物理的制約で。

これが、向こうの要求との誤差が大きい時ほど、後からのダメージが大きい。

 

(へえ、なるほどね…そういうことだったのね……)

 

 

この文章も、頭で考えて書いてない。

手がキーを叩く時に、「あ」「い」「う」みたいに頭に指示が来るっていう感じ。

打つべき文字は手が知ってるけれど、手を実際に動かすには脳から指令を出させないといけない…という。

信号が逆に流れる感じだな。

だから、打ち込んで、頭がそれを理解すると「へえ、そうなってるのか」なんていう、おかしな感慨になる。

 

手書き文字でこんなのを起こそうとすると、物理的速度があまりにも遅すぎて腹が立ってきてしまうので、キー入力とは本当に、ありがたいものだ。

 

 

ん?

圧縮の感じ、というご質問なのに。

結論は、「圧縮は自分ではやってない」という、なんともはやなことになってしまったではないか。

そりゃあ、その行程が「無意識」なわけだよ。

 

 

しかし、それではあんまりなので。

ご質問にあった、

「詳しく情景を書く上で細かいディテールよりも大まかでも全体を一気にみたい」

というのを、考えてみようと思う。

 

 

認知は不可能でも仮想は可能

私の場合は、もともと、私の個人的資質として「細部から全体を構築する」という強みがある。

これは、以前に、とある、強みを発掘するというプロが見つけたものだが、当時私は逆に「大きな枠組みから細部を特定していく」視点を中心に考えていたので、結局同じことを言っているとはいえ、もともとの志向は逆だったということがたいへん、興味深かった。

大きい方から小さい方へ…と考えていたのは、やはり、今回のご質問者さんと似たような発想をしていたからだ。

人智を超えるところの存在を、いかにして、人間が認識する三次元の物質に落としていくのか…という概念について考えていたから。

自然と、「大→→→小」という順番で考えていた。

けれど、この時、そのプロによって「あなたの中では、こういうことが起きている」というのを理論的に説明してもらい。

なるほど…と、大きく納得した。

 

平素から、ごく小さなところから、「その先」へ視線を向ける、というのを無意識的にやっていて。

結局は、相似形の連続によって大きなモノへと拡張していくのだ…というのを、どこかで体感していたのだと思う。

 

フラクタル、という言葉がある。

樹木や雲、海岸線などの自然界にある複雑な形状を、同じパターンの図形で表す数学的概念。

フラクタルによって描かれる図形は、全体像と図形の一部分が相似になる性質があり、このような性質を自己相似性と呼ぶ。

自己相似性を持つものには、Benoit Mandelbrot氏が発見したマンデルブロー集合やコッホ曲線、ペアノ曲線、シェルピンスキー曲線、ドラゴン曲線、Levy曲線などがある。

kotobank.jp

 

小さな図形をどこまで拡大しても、同じ形状を保つ。

私は学生時代、数学…というか算数の段階で、すでに、自分の天敵だと思っていたのだが。

発想そのものは、案外、数学的なところから始まっている場合もある。

素数研究を極めていくと人は人の思考を留めることができなくなる…というコワイ話を聞いたことがあるのだが。

理解はできないけど、言わんとしていることを、想像することはできる。

 

私の悩みの一つに、

「私が感じる<龍>というものの本質が、とてもじゃないが絵の中に落とし込むことができない」

というものがある。

ゆえに、現状では方便として、古来から認識されやすい形状を、記号として用いて、龍を描いている。

決して、それは間違いではないからだ。

ただし、いずれかの未来では、本来こうである…と感じる姿を、どうにかして、絵に留めたいというのは想い続けている。

 

たぶん、素数を追求した先に陥る人外の世界…っていうのは、そういところに通じるんではないかと。

 

ああもう…何言ってるか、自分でも定かでないところがもどかしい。

 

 

とにかく、「あそこにある。ここにもある」のだ。

それは、確実に、存在している。

 

ただし、正確に認識できない。

したがって、再現することは、もっと、できない。

 

おそらく、人としての意識が残っている状態でそれを認知することはできないのじゃないだろうか。

 

薬などを使って「向こう側」に行きたくなる気持ちが、こういう時は、わかる。

やらないけど。

 

 

ただし、そういうものを仮想することはできる。

それが、「小さなカケラ」から、ずーっと先へ拡大していくこと。

フラクタルである、ということを利用して。

 

意味、わかるかな。

 

 

身近なところにあるものに、常に、ヒントは潜んでいる。

 

神は人の内にある。

 

 

おそらく、霊能で知覚するための補助として用いる「石」や「カード」などの触媒は、大きすぎて直接は認識できない対象物を「手の中に入るモノ」に投影、仲介することによって人間が認識可能な段階にまで分解するためのもの…なんじゃないかと思う。

というか、私は勝手にそう思っている。

私の友人にも霊能者が何人かいて、彼・彼女らが、本当にそういう風にしているのか…というのは、わからないけれど。

 

少なくとも、私が描く時は、それに似たステップを踏んでいると想像している。

 

筆を持つ、紙と対峙する、という行為によって。

 

今、これを書いてて「なるほど」と思ったことがある。

それは、

 

粘土での造形は、行程が描画よりも一つ少ない。

 

ということだ。

一工程少ない、というのは大きい。

色を選ぶ、絵具を筆に含ませる/パステルを削る…といった行程がない。

手が、そのまま直接変形させることができる素材に触れているので、変換作業が少なくて済む。

だから、非常に楽に進められる。

まあ、それだけに、思うように造形が進まない時の苛立ちは絵の非ではない。

絵は、ある意味、諦めているところも多い。

これを確実に再現することは不可能だ…という前提が、どうしても、ある。

変換を経るごとに要素は劣化していくからだ。

 

一工程少ない造形は、その分、正確により近いものを己に求める…ということだろう。

他人事みたいな書き方になってて、ヘンな話なんだけど。

自分という人間の感情といったものを切り離して眺めていないと、こういうことって把握できないので、他人事として認識するのは、やむを得ない。

 

陶芸で、皿やカップといった実用的なものを作ることに全然楽しみを感じないのは、せっかく行程が少なくていい素材を扱っているのにそれがそのまま活きないから…だろう。

絵付けになれば、紙に描くのと行程は同じだ。

むしろ、焼き上がりを想像しながら色を選ばなくてはならない分、変換行程は増えている。

それを超えた「できあがりの意外性」が楽しくて、絵付けは大好きなのだが。

 

 

おつかれさまでした。ありがとうございます。

……さて。

今、この文章読んでくれているのは、一体、どれくらいの数で。

どういう人達なんだろうか。

かなり酔狂だと思う。

質問をくださった方……ついてきてますか????

大丈夫かな…………

 

私がその方だったら、たぶん、かなり上の方の段階で記事閉じて、みなかったことにしちゃう…と思います。

 

ここまで、読み返し、推敲ナシで一気に書きました。

後々、誤字等修正することがあるかと思いますが。

こういうものは、理屈がおかしいとか、文法がおかしいとか、意味が通らないとか考え出すと、「そもそも、全体がおかしい」という結論になってしまうので。

あえて、編集といったことはしないで、このまま投稿します。

 

 

あー、頭が痛い………

脳が雑巾になった感じ………

甘いもの食べたくなるんだよね、こういうのの後って……

 

 

 

 


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