大きすぎる相手を圧縮定着する、ということ…慣れが惰性にならないためのリセットスイッチ
「ちゃんと全体の絵があるが
全然見えない
それは相手が大きいからだ」
この理屈が、わかる?
と。
深夜のチャットで、問いかけられた。
わかるともさ。
なんせ私は、1年半、その現象と、リアルに格闘したのだ。
それを知らない人に、その問いをされる…というのが。
なんとも、面白い&人間って結局、意識をどこかで共有しているんだよな…と改めて感じる一幕だった。
私が見えない世界を描くようになっちゃった当初。
好きでもないのに、出てくるのは天使だった。
そして、それからすぐに、「いずれは神」というのは、わかった。
いつ、どうしてわかったか…ってのは。
もうすでに、定かではない。
覚えているのは、最初に描くべき一柱の、逆指名だけ。
近々、神…とはわかっても。
紙の上に収まる…「絵としての体裁を保った状態で」収まるようになるまでに、1年半を要した。
冒頭の問いかけは、まさに、その時の状況そのものだ。
起きていたことは、こう。
1.私は描くべき対象をイメージできている。
2.実際に紙に落とし込もうとすると、極端に「部分」しか用紙に入らない
3.用紙が小さいせいだと思い大きな紙を用意しても、出てくるのは同じ限定範囲のみ
4.何度か繰り返した後、「圧縮をかけることができきらないのだ」ということを、ようやく理解。
5.格闘すること数ヶ月…
用紙を大きくしても結果が改善されなかったのは、
「スライドを巨大なスクリーンに投影したところで、コマの外が映るようにはならない」
ということだ。
結局、イメージしているように紙の上に納るだけの圧縮をかけられるようになるのに、1年ちかくかかってしまった。
それがあって、今、それなりに、「大きな相手」を紙に入れるのがそんなに苦しまずにできるようになった。
それでも、対象によっては暴走気味になることが多々ある。
また、画材によっても暴走傾向が強まることがある。
その代表は、墨と筆だ。
そういうことを経てきたので。
「ちゃんと全体の絵があるが
全然見えない
それは相手が大きいからだ」
というのがどういう状態かは、よくわかる。
そして、この会話をした時に、初めて気がついた。
圧縮かけることに慣れてきて、その行程を特に意識せずにやるようになった、弊害がある。
相手の大きさを、失念することだ。
と、いうか。
相手の大きさを「リアルに体感させるための技術」としての、圧縮を加減する…ということ。
それを、考えなくなっていた。
昨日から、アクリル画を描く準備をしてた。
あまり意識せずに圧縮をかけきってしまうようになってた…ということの弊害を感じたので。
もともと描こうと思ってたのとは違うことを、やることにした。
その、途中経過。
まだ、何がどうなるのか、自分でもさっぱりわからない。
アクリル画を描くと、抽象画になりやすい。
今回もそういう気配だ。
大きさが27㎝四方と、そんなに大きくないので。
前の、大きな絵の時ほど大変ではないと思う。
画集の見開きに入れた2枚。
左が、オオクニヌシ(正確には、オオナムジ)「主」
右が、ヤマタノオロチ…というか、火山「緋の川」
どちらもサイズはB1(728mm×1030mm)
仮に270mmスクエアくらいのサイズでも。
紙の大きさに合わせすぎない「威力」をここで思い出すリセットスイッチには、なるだろう。
時々、「慣れるってコワイ」と思うことがある。
線を引く、ということ。
色を選ぶ、ということ。
どういう風にイメージを切り取るか…ということ。
惰性でやってないか。
しばしば、チェックが入って、ハタと気づく。