神仏と人間の世界は、流しそうめんみたいなもの………オオクニヌシさんの前走
神云々というと、すぐに「宗教?」って思ってイヤな気分になる…という方は読まないでください。
逆に、宗教観が確固としてあって、あるいは何らかの宗派に属していてそれをかたくなに信じていて、「神とはこういうものだ」という信念が強固な人も、読まないでください。
途中で記事の内容が全く変わります。
そういうのがイヤな人も、読まないでください。
ヒトガタとか動植物のカタチなど、具象で表現できる「神仏」は、人間にかなり近い階層に存在してる。
以前にこんな文章のある記事を書きました。
神の何が恐ろしいって。 どんなに可愛がっていても、「もう終わり」と決めたのなら、躊躇ないであろうと、わかることです。 天使は、その神の意志を具現化するのが役目なので、そうなれば人の敵となる。
光、光、光、光………と、光だけ連呼しても人は救われない - 緋呂の異界絵師通信
このあたりに述べているような存在は、人間が身近に感じることができるような階層ではない。
「在る」も「無い」も境界のないようなところの存在で。
愛だなんだってのも、この、人間が生きている次元で語ってるようなものとは違う。
障子に穿った針先の穴から、やっと透かし見る…程度ですらも、ほとんどの人間には不可能な領域。
私? 無理だねえ~。
見たら生きて還れないと思うし。
大きな流れというのが、あって。
人間も、その中にいます。
人間だけが別の流れを「創って」、分離しているところもあるけれど。
それは…なんというか……大きな気泡の中に入ってるけど、そもそもそれが浮いてるところは流れてる…みたいな。
いやまあ、そこまでの隔離状態ではないけども………
うまい表現みつからん。
あ…大量の流しそうめんの中に、一筋だけ色つきのが混じって流れてる…な感じか?
色つきそうめんの一本が、今の人類…な感じ?
実はそもそも全部色違いだったりするんだけど、人類からはそれが識別できなくなってる…ていう?
ともかく。
一般的に、人間が認識できる神とか天使とか仏とか…っていうのは、色つきそうめんの中にいて、適時、役割に応じて他の色に混じったり行き来したりできる感じ。
で、人類の色とは交わらないそうめんの方が、圧倒的に多くて大きい。
流れも、一方向だけに流れてるわけじゃないし。
いきなり何を書き始めたのか、と思われるかもですが。
大国主命を描くことになってて。
すごく、読み応えのある文章の挿絵として描くのだけど。
どうにも……
大国主命を描こう、と思うと、浮かんでくるのが掴み所のない抽象画ばっかりで。
それも、上の方に書いていたような感じの概念ばかりが、ぽこぽこと泡のように出てくる感じで。
大国主命は、前に描いた時も、抽象画になっちゃったんですよ。
(その時は、名前は、大国主命の前のお名前を想定して描いてるけど…)
ヒトガタのイメージが全然ないわけではないのですよ。
お顔とかは、比較的、具体的にイメージできているのです。
もっと前に、スセリさまとのペアの絵も描いてますし、その時はちゃんとヒトガタでした。
軌道を修正しないと…。
今回はヒトガタで描きたいので。
それも、できれば、若いのじゃなくて、オッサン顔で描きたいんだよねえ。
若い時はやっぱり、名前が、オオナムヂさまだから。
あれ?
そう思うと、今まで、大国主命として描いたことないのか?
おっと。
ヒトガタに圧縮するのに、さんざんてこずったのは、スサノオさん以来かもだなあ。
あの時は一年半かかったから。
今回は1ヶ月未満で終わらせなきゃならないので、気合い入れていきます。
変の中の不変=普遍 それでも、それすらも変わっていく
とあるやり取りから、「変わる」ということを考えた。
少し古い付き合いの人と、久々にやり取りをして思った。相変わらずだね、と言われ。そっちこそ、と返す。その実、両者とも同じではない。お互いそれを知っている。何を見て、相変わらずと言うのか。基本的な性分についてであって、その時の行動とか取り組みについてではない。変の中の不変=普遍
— 異界絵師 緋呂@あかり玉制作中 (@HIRO_eshi) 2016年7月1日
あの人はこう変わった、ああ変わった、なんかヘンだ、もう付き合えない…って、しょっちゅうそんなことばかり言ってるのは、自分自身が変わっていくこと拒否しているからなんではないのかなあ。自分がかわらないえから、余計に人が変わったように感じる的な。
— 異界絵師 緋呂@あかり玉制作中 (@HIRO_eshi) 2016年7月1日
人がどうなった云々で反応を変えるより、自分が変わったからもう合わない、という理由で行動する方が、私は好きだな。変わらないものなんて無いよ。変わる速度や幅、スパンなどの違いがあるだけ。変わらないと思っても、変わっているもんだ。時代は流れているのだかし、時間は経過しているのだから。
— 異界絵師 緋呂@あかり玉制作中 (@HIRO_eshi) 2016年7月1日
思い起こせば、私自身、ずいぶんと「あの人はなんか、前と変わっちゃった」という感覚になってきものだ。
なんか変わったなあ…もう、合わないかも。
そんな感じ方。
けれど、そういう、外側での判断は、やはりどこかで、自分を正当化しようとしてるなと思う。
変わったのは、あの人ではなく、自分だ。
そう思えば、恨みがましい感覚など、湧き出ようがない。
意識的にそう感じようとしてきたわけではないけれど。
そういう風に見ることが普通になってみると、自分が変わったと考える方がずっと、未練たらしさがなくなる。
執着がなくなる。
変わらないものなど、ない。
この世界の真理の一つだ。
ただ、普遍性というのは、変わっていくスパンが非常に長く、なかなか変化を感じとりにくいほどに緩やかである、ということだと思う。
宇宙の星だって、位置を変えていくのだ。
数千年前には、りゅう座のα星が北極星に相当していて、クフ王のピラミッドはその方向を向いているそうな。
そして、現在の北極星ポラリスは、じりじりと位置を変えていき、AD2100年頃に、最も天の北極に接近する…らしい。
天の北極。
不変なものがあるとしたら、それが一番、近いのだろう。
それだって、「現在の宇宙において」という以上のことではないし。
その変遷の縮図が、一人の人間なのだ。
「魂的な人格」が天の北極とするならば。
その時代や役割に適した人格を形成している中心的な価値観が、現在の北極星…みたいな感じだろうか。
変わることを恐れる人も多いようだけれど。
心配しなくても、日々、時間の流れとともに、人は変わっていくのだ。
どんなに頑固な人でも。
その人のペースで。
そんな、しょーもないとりとめのない話をしに、来て下さい。
7/21~26に、名古屋市北区の「箱の中のお店」にて合同展開催です。
25日は不在です。
それ以外の日は在廊します。