緋呂の異界絵師通信

ミエナイセカイ ハ カサナッテル

知ってたけど放置していた文章の癖を直す 逆説撤廃宣言

文章の書き方というのは、人それぞれに癖がある。

自覚していることもあれば、無意識のこともある。

 

私がずっと前から自覚している癖の一つに、

逆説でつなぐ

ていうのがある。

 

「○○は××だ。

.........だから、.........なのだ。

しかし。

.........なのだから、それは.........なんじゃないだろうか」

 

みたいな書き方のことだ。

 

知っているのだ、この癖。

回りくどい表現の筆頭であることも、知ってる。

ただ、書きやすいから、そのままずっと放置してきた。

 

 

これを、やめる。

 

世の中は逆説で成り立っている...という。

そうだと思う。

 

だから、ついつい、それ多様してきた。

 

それを、やめてみる。

一時的なことになるかも知れないし、もしかしたらストレートな書き方が定着して使わなくなるかも知れない。

わからない。

 

とにかく、やめる。

 

 

「でも」や「しかし」で文章をつなぐことを、本当に必要な時だけに限定する。

基本は使わずに書く。

どうしても、それを使わないと言いたいことが言えない、という時の伝家の宝刀的な。

抜かない前提で刺している江戸侍の刀的な。

 

 

ブログが急に短文ばっかりになったりして(笑)

ま、そしたら、それはそれでよし。

 

 

しばらく続けてみて、気が向いたら、理由を書くことにする。

ひとまず、宣言。

 

でも、しかし、けれど、だけど、そうは言うけど...等々の、一旦否定する書き方

を、やめる。

 

がんばれ自分!

 

 

 

 

お不動様も笑ってる。

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△陶器用の原型として制作した不動明王レリーフ像(部分)

 

 

決断と行動の神のご加護 急カーブを描く考え方の変わり目と、未来地図

そんなことわかってるよ


っていくら思っても、現実にそれができてないのなら「わかってる」と言っちゃいけない。

わかってるつもり、とか、わかってる気がする、程度。

そんなことがたくさん表層に出てきている。

いいことだ。

見えれば対処できるからね。

わかってるつもり、という段階で留めておく選択だってできるし。

わかった、まで持っていく選択もできるし。

やってみたけど諦めるという選択だってできる。

でも意識に上ってきてなかったら、どれも選べない。

 

 

ここ最近、急激に考え方がカーブを描いている。

 

今までのらりくらりしてきたから。

おそらく、これは、「本当に、本気モードに切り替わった」結果だと思う。

 

 

そして。

まさにそのカーブを描いている渦中に、40日間の時間売り。

この案件を決めてきたのは先月の話で。

その時には、こんなに急カーブがやってくるなんて思ってもみなかった。

私のやることって、だいたいが、そういう感じなのだけども。

これもまた、一つの「選択の局面」だと私は今、捉えている。

 

時間売りも、単に時間売りで済ます気はない。

やりながら、いろいろなことを考えている。

たかが「段ボール箱を組み立てて積む」だけの作業でも、コツを知らない時と知ってからとでは格段に、やりやすさや処理速度が変わる。

たかが箱、されど箱。

目下のところは、そうした発見があって、面白い。

この面白さと、今急カーブを描いている考え方の変わり目と。

これからやろうとしていること。

それらを天秤にかけながら。

 

どのタイミングで、舵を切り直すか。

 

 

まあ、そんなこと言いながらも

「そもそも、この考え方がすでに甘々なんだよ」

とも、思っている。

 

 

自信には根拠はいらない。

 

自信に、根拠などいらない。 自信がない、というのも、一種の逃げ口上にすぎず。 結局は、「やりきることを避けてもいい理由」づけの一つでしかないのだ。

自信に根拠などいらない なりたい理想があるのなら根拠を探すよりひたすら信じて動け Instagram観察で得た実感 - 緋呂の異界絵師通信

 

 

無駄に頑張る必要はないが、必要な頑張りは確実にある。

 

絞らねばならない。

やることを。

 

わかったつもりになっていただけで、実際にはそうではなかった。

だったら。

今までやっていなかったことをやるためには。

その余白を作る必要があるわけで。

別にやりたくはないけど、できるからやる。

そんな項目を減らして余白を空けることが大事だ。

 

 

私の筆は、誰のために振るうのか。

 

私は、誰のために筆を振るうのか。

 

よくよく、それを考える時だ。

 

 

10年後。

「あの時の決断があったから、今がある」

と、今のこの時期を懐かしく思える時のためにも。

 

 

(何言ってるかよくわかんないと思いますが、言語化することが目的の自分メモなので書きたいように書いてます)

 

 

先日、参加させていただいているWebサークル「やおよろず」で、新しい神様の記事に挿絵を描きました。

https://www.instagram.com/p/BZPnBBnFlrH/

やおよろずで、阿加流比売神(あかるひめのかみ)挿絵描かせていただきました。https://t.co/qNeUd1LObM #日本の神様 #やおよろず #イラスト #ipadpro #applepencil #art #illustration #japanese #異界絵師

 

yaoyoro.net

 

この神様は、『 決断と行動の神様 』なんです。

まー、なんて。

今タイムリーな御神徳!

 

もっと前に更新するはずになっていたのですが、諸事情あって今に伸びていたのですが。

今の自分、まさに、決断と行動の御利益が必要。

今だからよかった!

(まあ...平面大苦戦で、なかなか描けなかったのですけどね)

 

横暴する夫に三行半を突きつけて里帰りを決意した女神です。

 

私が三行半を突きつける相手は.........グタグタしてきた過去の自分...てところ。

古い観念も、古い自分も、置いてきちゃおうじゃん。

 

 

 

自信に根拠などいらない なりたい理想があるのなら根拠を探すよりひたすら信じて動け Instagram観察で得た実感

根拠なんかいらない。

こうなると思う姿を、「そうならないなんて意味がわかんない」ていうくらいに、思い描くだけ。

 

 

実を言うと、そういう考え方にはちょっと、疑問を持っていた。

というか、「なんだそれ」って思ってた。

 

けれど、やっぱり、それが一番大事なんだと感じられるようになってきた。

 

ナンのきっかっけがあった、というわけではない。

単純に、「やっぱり、そういうことだよね」と、急に思えるようになっただけだ。

 

 

別に原因探しは重要じゃない。

そうなった、ということを受け止めるだけのことなので。

 

でも、一つ「これ影響してるかな」と思えることは。

Instagram観察だ。

 

 

知り合いをフォローする、という使い方はしていない。

一時はそうだったのだが、ある時に、日常写真などをUPしている人はフォロー対象から外す」「Facebookと同じ画像しか載せてない人は対象から外す」と決めて、そうした。

結果として、今私のInstagramには、美しいものやスゴイ作品、驚く作品、絶景写真などしか流れてこない。

 

絵画、イラスト、彫刻、陶芸、宝石、彫金、ワイヤーやビーズ、木彫、そして美しい人物と景色、空や自然。

 

その、なんと気持ちいいことか。

 

 

人によっては、Instagramにも宣伝コピー入れまくり画像をUPしているらしいのだけど。

私は、そういうものが流れてこない。

フォローしていないから。

選んでいるから。

最近力を入れてより美しい画像が入ってくるようにどんどんフォローしたり外したりをしているので、強化されてきている。

その結果、

「世の中は、なんと素晴らしいものを創り出す人にあふれているんだろう」

って。

思えてくるまでになってきた。

 

 

Instagram以外の生活の全ても、これと同じじゃないのか?

 

 

そう思うと。

「ランクが上の人たちと交流しなさい」と言われていることも、実感としてわかってくる。

 

自分の中の美しくない部分を外に見せない、という考え方も、わかってくる。

 

これは、「美しくない部分を見ないようにする」ということとは根本的に違う。

自分自身はそれを直視し、美しいものに変えていく努力をする。

しかし、それを外には出さない。

そういうことだ。

 

そんなことしていたら無理が来て自分が辛くなるだけ。

ていうのが、今流行している考え方だと思う。

 

しかし。

それを超えてでもなりたいものになりたいかどうか、で、判断は全て変わってくる。

 

超えなきゃなれないものになりたいのなら、無理でも辛くても超えるしかない。

そういう時は必ずある。

なのに、いつでも「無理しなくていい」って言ってたら、現状維持どころか下降一方だ。

 

 

こんなこと、「なにを今更」なことばかりだ。

今までいろいろな人から聞いてきたことだし、たくさん、同様のことを書いたものも読んできた。

 

でも、「ふーん」て思っているうちは、響いてないってことで。

大事なことだとも実感していないし、ましてや必須だなんて、思えない。

 

 

美しいものを創る側でいたいのなら。

そうあるべきだ。

 

 

こんな風に思えるようになったのも。

陶器作品を作るようになって、今までとは額の違う設備や材料が必要になるようになって。

陶器という、他の絵画よりもずっと色褪せず変質しにくいものを作品として残すようになって。

 

自分は、何をする人間なのか...ということを、今まで考えていたのとは別の視点、別の深さで考えるようになったからだ。

 

さらに、販路を作る前提で、上代設定をシビアに検討しなきゃならない局面が来た。

 

物事には、「現状を現実的にシビアに測る」一面と、「現状には関係なく、自分とはこういう者なのだという信念」の一面と、その両方が必要になるのだ。

 

そのギャップが大きいほど、信念の中の自己像に現実を近づけていく努力が必要になる。

そして、その信念を持ち続けることができなければ、早々に諦めたり妥協することになるのだ。

 

 

どこの誰かもわからない人たちが日々投稿を続けるInstagram。

その観察で、美しいものをたくさん見るようになって。

そんなところまで、念が強化されはじめた。

 

 

と、いうことは。

私がその恩恵を受けたように。

私がそこに主張を投げることによって、いつか誰かが同じように、信念を強化する日が来るかも知れない。

 

まず、自分から出す。

それをしなければ、起こることも起こらない。

 

 

雑然とした段ボール箱の山に埋もれて過ごしながらでも。

その現実の風景とは違った景色を見ることができる。

 

 

自信に、根拠などいらない。

 

自信がない、というのも、一種の逃げ口上にすぎず。

結局は、「やりきることを避けてもいい理由」づけの一つでしかないのだ。

 

 

 

世の中の、理想の自分になりたい諸君。

 

それが現実になるかどうかは、君の「根拠のない自信」の強さや、それを抱き続けることを自らに許可できるか否か、にかかっている。

 

私も今この年になって、ようやく、そのことが実感できてきた。

 

風呂敷ばっかり広げてカッコ悪い、とか。

痛いヤツじゃん、とか。

 

そんな風にしか捉えられないうちは、理想の自分になんか、なれっこないよ。

だって、なろうとしてないのだから。

 

半世紀生きちゃったけど、まだ寿命は来てないし。

もし明日が寿命の期限だったとしても、明日までは、理想になろうとし続けられるってことだし。

 

この世界は、実に、素晴らしいと、心から思う。

 

 

 

ある朝の景色

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Instagram観察その2 美しい画像が並んでいる画面は見てるだけで嬉しいもの

今日も、合間を縫ってInstagram観察。

♡を押すと、アルゴリズムがそれを解析して、好みそうな画像をピックアップして流してくる。

そこから、いいなーと思うものを見て。

プロフ画面で他の画像も見て。

気に入ると、フォローする。

 

だんだん、ピックアップされてくる画像の傾向が、固まってくる。

 

同じ画像がなんどか流れてくることもあるが。

別のアカウントだけど、とても傾向が似た画像も、たくさんある。

どれがどのアカウントのものか...とか。

ぶっちゃけ、どうでもよい。

 

モノクロの絵が好きだ。
墨の絵が好きだ。
ペンのエッジが立った絵が好きだ。


でも、同じようにそんな風な作品でも、どれでもいいってわけじゃない。


ぐぐーっと、奥底からテンションが上がってくるような画風と、全然何もなく通り過ぎる画風がある。
似てても違う。


この違いは、どこから来る?

 

見られやすい画像作りポイントを見つけるためのInstagram観察なんだけど。

結局、自分を再確認することになる。

 

 

そして。
Instagramで気づく。

私、カラー作品は外国人の画風の方が好きかも。
フォローしたくなった人、軒並み外国人。
国籍バラバラ。

 

中には、同じ人の別アカウント?と思っちゃうくらいに作風が似ていることもある。

日本でもキュレーションメディアが勝手に画像を使う問題があるけれど。

海外でも、そういうことはあるのかも。

だとしても。

これはきっと別人のアカウントだよね、っていうものにも、とてもよく似たものがある。

言語を見ると国も違うみたいで。

そういうのを見ると、無意識領域では全人類共有しているっていうのも、全然不思議ではなくなる。

 

 

こうやって、「どう見せると、より見栄えするか」っていうのを考えていくのも、思ったより面白い。

 

私のは、写真の撮り方からやり直さなきゃならないものばかりだけど。

 

 

それにしても。

美しい画像、好みの画像がずらっと画面にたくさん並ぶ、っていうのは。

想像以上に、見ていて気分がよいものだ。

なるほど、私も、自分の作るモノによって、誰かにこんな気分を味わってもらえたら。

それはそれは、幸せなことだなあ。

改めて思った。

 

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#毘沙門天 #七福神 #ムカデ #イラスト #ipadpro #applepencil #art #illustration #japanese #異界絵師 #オーダー可能

 

 

 

 

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Instagram観察〜ブログともFacebookとも違う「そこだけの世界観」の創造

進めなきゃいけない作品が一つあるのですが。

なかなかに、平面大苦戦中でただいま現実逃避中。

Instagramの観察をしています。

 

私はコーディネイト写真とか食べ物写真とか興味皆無のため。

やはり見たいのは、いろんなジャンルの「作品画像」です。

絵画、イラストはもちろんのこと、陶器や金属作品なども嬉しい。

 

 

Instagram観察をしてるのは、どういった「画像の切り取り方」をしたら見てもらいやすいのか、というのを知るため。

なのですが。

♡押したり、フォローをした作家さんを並べてみると、自分の傾向もわかります。

 

 

私は今まで、プロフのアイコンはどこででも統一されている方がのぞましいかな、と思っていたので、全て同じ画像を使っていました。

けれど、やはりTPOはあるのだね。

Facebookはやはり、自分の写真が望ましい。

ブログも、それでいいと思う。

が、InstagramとTwitterはどうだろうか。

 

とりあえず、Instagramを作品の画像に変えてみた。

なんせ、自分の写真をアイコンにしていても、作品の傾向はそれだけでは伝わらない。

特にInstagramは海外の方も気軽にみて下さるし、むしろ♡つけてくれるのは海外の方であることが多い。

自分の画像は、時々、派手に彩色した作務衣着ている絵を載せる程度でいいかな、と思った。

(そして、今、普段の生活でも作務衣でいた方がいいかな、と、何度目かの思案中。真夏も去ったことだしね…)

 

 

私が見る側の時も、フォローしているアーティストは海外の方が多い。

選んでいるわけではないけれど、なぜか、そうなっている。

最近は「Manga」が海外でも通用するようになったくらいに市民権を得ているので。

外国の方のイラストが、日本のマンガ家のようなデフォルメになっていることも多くて。

ずいぶん、様相が変わってきたなーって感じる。

色使いは日本人とは全然違うけれど。

 

 

陶器になると、すごいびっくりするような作品が多くて、本当に楽しい。

こんな発想、日本人にはないな、って純粋に感動する。

土の性質も違えば、絵具や釉薬の事情も違うのだろうから、日本の土で同じことをやってみても違う感じになるんだろうなあ、なんて思いながら見る。

 

石をあしらったジュエリーや金属作品なんかも、「魔法の国ご本家」みたいな感じの作家さんを見ることができて、厨二魂が疼く(笑)

 

そんな中に、自分の作品の画像をぶっこんでいくのだ。

海外の人も見るところに発信する、って、そういうことだ。

 

 

複数の方から、海外の人にアピールした方がいい、というアドバイスをいただいてきた。

問題は語学なんだけど。

そこ勉強したい気持ちがあんまり湧かなくて。

今、友達が尊敬する人の著書を原語で読みたいと英語勉強はじめているのを見ていて、偉いなあ、って思う。

ひとまず、翻訳アプリを駆使して、なんとなく内容を掴む程度にしかやっていないけど。

それでも、何もないよりはマシだ。

 

 

とにかく、もう少しじっくり、Instagram観察を続けてみる。

自分の作品をどう撮影し、どう切り取って送り出すのがいいのか、試しつつ。

 

ひとまず、今のところ理解したのは

「完成していなくても全く問題はない」

ことと

「数秒でいいから動画をマメに撮る」

ことは、心がけようと思う。

 

完成してなくても問題ない、ってのは、もともとそういうスタンスでやってきてるんだけど。

なんかこう……

「ここに掲載するために、あえて、一部分だけを作画する」

みたいなことだ。

 

作品の制作過程として、全く途中のものを載せる、ということとは、いささか違う。

(もちろん、それも大いにアリ)

 

 

 

私のことなんかカケラも知らなくても、画像だけ見て「あ、いいな」と思ってもらう機会がある。

これって、やっぱり、すごいことだ。

活かさない手はない。

 

 

そして、思った。

画像を、主に海外の方に見てもらうために発信する。

そのことに、「私がどこの誰であるか」なんてことは、関係ない。

一切。

 

Facebook繋がりの人たちなどだと、文章と本人にギャップがある、というのが話のタネになる。

でも、海外の人にはそんなこと、どうでもいい。

切り取られた画像だけが全て。

性別も年齢も居住地もどうでもいい。

なんなら、名前すら。

 

非言語コミュニケーションの極みじゃないか?

 

そう思うと、なんかすごく、面白くなってくる。

 

今までは、後でブログに貼りやすいようにInstagramにあげる…みたいな感覚があったけど。

やり方を変えて、InstagramはInstagramの中での「緋呂の世界観」を創る場だと捉えてみようか。

 

 

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