「美しい」という概念がなかったら人類はとっくに滅んでいた
「理/ことわり」を知りたい。
理解という字は、理を解すと書く。
解は、わかるということでもあり、解くということでもある。
なぜ、美術は「術」なのか。
美に学をつけると、全く違う言葉になる。
美術も美学も、私には大事なもの。
一般的には、絵などの技術技法に関わる方面は美術。
思想的なものを美学。
指しているものが、全く違う。
芸術というカテゴリに入るもののうち、美術だけが、「術」という文字を持つ。
音楽、演劇、建築、文学、書道、舞踊...
親カテゴリと同じ文字がつくのは、美術だけだ。
そして、音楽も演劇も建築も文学も書道も舞踊も、どれも「美しい」という形容で表現することができる。
というか。
美しい、という形容は、おそよ世界のあらゆるジャンルにおける最上位を表現する言葉だ。
それがなかったら、人類などとうの昔に滅んでいた。
神も龍も、描く上で「理」は欠かせない。
少なくとも私はずっとそう思ってきたし、今も思っている。
感性だけでやってるとはいえ。
そこには、私の解釈における「理」がある。
理屈として説明できるかどうか、というのに関わらず。
もし、それを欠いたものを描いたり創ったりすれば、その時ははっきり、わかる。
ただし。
それは、「そうなった時にわかる」のであって。
結果論ということだ。
だから、ずっと私は、理を知りたい、理を掴みたい...と思って生きてきた。
ずれた時にわかる、というのではなく。
ずれたものは何かを、言語で人に説明できることを。
術には、理が必ず、存在する。
理を知り、解し、しかるべき用法で活用したい。
この欲求は今も、筆頭にほど近いところに必ず入ってくる。
これはボツ、やり直し。
字形もNGだけど、紙とペンの相性もNGだったのでやり直し。
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