共感は沼
女脳は、悩みに対して共感してもらいたいのであって、解決策を求めてなどいないそうだ。
この感覚は、私にもう、全くもって、意味がわからない。
共感が、何の役に立つ?
自分がはまり込んでいる状況を抜けたいのなら、共感なんかで何かが変わるわけがない。
むしろ。
共感つながりを求めるって、変わらないでいることが前提だと思える。
うんうん、大変だね、って聞いてもらえればそれでいいんです。
って?
それで?
今まで何百回、それを繰り返してきたのかと聞きたい。
何十年、それを繰り返してきたのか、聞きたい。
結局、どうこうする気、ないんだよね。
そんなだから、私は、つらい状況にいる人で、その中に浸っているような人との会話は嫌いだ。
かける言葉も見つからないし、接し方もわからない。
そんな風にしか思えない私に、「必要なのは<共感>ではない。○○を○○○ること」と教えてくれた人がいた。
捨てる神あれば、拾う神あり…と言うけれど。
単に言葉を言い換えているだけではなく、その両者の具体的な違い、というのも、ちゃんと理屈でわかるように教えてもらった。
今のところ、まだ、体感的に理解できてない表層だけの状態だな、と感じるので、○○の中の文字をここには書かない。
ただ。
今まで、どこに行っても、たいてい、共感というキーワードが出てきて。
共感と同調は違う、という切り分け程度しかピンとこない私には、いつも、モヤモヤが残っていた。
それが度重なると、まるで「共感がわからない人には人の役に立つこと/ビジネスは無理」と言われているような気にまで、なってくる。
だから、この「○○○ことが重要」であって「共感ではない」という話は、松明を一本余分にもらったくらいの、ありがたい感覚だ。
なぜ、共感ではないのか。
そこも、ちゃんと、はっきりした理由がある。
その理由を聞いて、その教えてくれた人と自分が、たぶん似た傾向の人間同士なんだろうな…と、思った。
「共感が大事」と信じている人に、その話をしたら。
どういう反応になるだろうか。
そんなことを、思う。
その「共感<<<<○○を○○○る」という理屈は、決して、「共感がわからないから、別の見方を編み出した」というようなものではない。
共感の罠が体感できてないと、たぶん、すごく抵抗があると思う。
今までは、共感しあってる人達って本気でそれでいいと思ってるのか?って思うことが多かったのだが。
その理論から見ると「いいわけないやろ」と、サクッと思える。
実際、よい訳がないのだ。
もちろん、それは、「前進する」「変化する」ということを目的とした時の話。
目的が「よしよし、とお互いに撫で合う」ことであれば、いっこうにかまわない。
私はごめんだし、関わらないだけの話なので。
存分に、撫で合いっこすればいいと思う。
さて。
私は、「相手の位置に立つ」ということが、非常に苦手だ。
というか、できない。
なので、この「○○を○○○る」は、とても、ハードルが高い。
しかし、意味がわかるから、できるようにはなる。