今日は節分明日は立春。旧正月は16日
東洋の占術で、よく「節分で区切る」というのがある。
節分までは、前の年として考える。
節分翌日=立春から、翌年として考える。
たとえば今年なら、今日までの誕生日の人は「酉」と考えられ、明日からの人が「戌」と考えられる。
この区分は「二十四節気」だ。
国立天文台暦計算室の「こよみ用語解説」からの引用を貼っておく。
二十四節気(にじゅうしせっき)は、1年の太陽の黄道上の動きを視黄経の15度ごとに24等分して決められている。
太陰太陽暦(旧暦)では季節を表すために用いられていた。
また、閏月を設ける基準とされており、中気のない月を閏月としていた。
全体を春夏秋冬の4つの季節に分け、さらにそれぞれを6つに分けて、節気(せっき)と中気(ちゅうき)を交互に配している。
二十四節気は季節変化を表す指標=太陽暦の要素です。 太陰太陽暦では二十四節気を使って季節が大きくずれないように調整します。 二十四節気を使うと年の途中でも季節のずれを修正することができます。このようなうるう月 (閏月) の置き方を歳中置閏といい、逆に言えばそのために二十四節気が考案されたわけです。 二十四節気の基点は冬至であり、古来より冬至を観測することで暦を正していました。
日本は農耕国のため、雪解けとなり新しい耕作のサイクルが始まる春が重要視された。
立春、立夏、立秋、立冬のうち立春を最も重要とし、特にこの区分を「節分」と指すようになった。
正確には、節分は各季節ごとにあるわけだが、単に節分と言えば2月のこの節目を指す。
現代では、2月しか意識されないと言ってもよい。
この新しいサイクルの起算日を指して「新しい一年が始まる日」とも呼ぶわけだ。
太陽太陰暦の正月=1月(睦月)は、立春後に一番最初に来る新月の日のこと。
今年はそれが2月16日のため、この日が睦月朔日/1月1日となる。
現代人の感覚では、正月=元旦=1月1日なので混乱しがちだが、立春は旧正月ではない。
専門的な話になると、かなり複雑で難しい。
私もあんまり理解してない。
理解していないながらも、混同もしないように気をつけている。
(というか、混同しないよう気をつけるようになった。この数年で)
私は現代人なのでグレゴリオ暦による新年を、普通に新年として考える。
しかしながら、神ゴト的考えに沿う場合は、一年の起算とされる立春と、睦月朔日の両方で考える。
だから、氏神様やよく参拝する神社は普通のお正月に初詣する。
ご神事ではあるけれど、季節行事の感覚で。
そして、伊勢には立春後に行くことにしている。
季節行事ではなく、ご神事としての感覚に大きく寄って。
もちろん、このあたりは、現代においては単に個人的な流儀という域の話ではあるが。
今しかない、というベストな時にベストな人に会えるってなんて素晴らしい!
タイミング、っていうのは、本当に、大事。
自分から合わせに行くことは、当然、あるんだけど。
意図してない時に意図してない出来事がまさしく今しかない!ていうタイミングで起きると、驚くと同時にテンションがポーンと、跳ね上がる。
今日、まさしく、そんなことがあった。
会いたいなと常々思っていた方が名古屋に来られるというお知らせを見て。
自分も予定が空いている日だったから、即座に一枠確保した。
ぶっちゃけ、相談したいこととかなかった。
単に、直接会う機会を逃したくなかっただけ。
その方は、すごいビジネス脳の持ち主で。
すごい精度の、ちょっと珍しい見えない世界方面の能力を研ぎ澄ましている方。
いざ、時間が来ても。
私は、特に何を話そう...っていうのを決めてなかった。
的中率の高い診断メニューをされているので、まずは...
私が、この先、どのように関わるのがよいのか?
といったことを中心に、二人ほど、相性を診断していただいた。
結果は書かないけどね。
大いに、納得のものだった。
私自身も、おそらくそうだろうなと感じていたことを、もっと具体的で現実的な意味合いでもって、明文化してもらえた。
その段階で、今日はもう満足かも...っていうくらい。
しかし、すごかったのは、その後。
私がぽろっと漏らした、もうすぐ始めようと思っている企画のこととか。
私が、絵描きとして、どういう風にしていきたいのか...とか。
そんな話を、次から次へと、具体的に落とし込んでくださった。
どういう風に動いていくと、どういう結果が予測できるのか。
やり過ぎたら、どうなると予想できるか。
すごかった。
マジ。
今日でなかったら、これはなかった。
ということで、計画していた日程を少しずつ調整し。
これから先の動き方を、未来地図に照らして調整し。
更に、その後できていくであろう、分岐する枝葉に伸びる芽の予測。
自分にビジネス脳がごっそり無いのがなんか悔やまれるな...と思っていたけど。
別に、私にそれがなくても、適切な時に適切な人を見つけることさえできれば、何も問題はないのかも。
今私は、継続的に相談している方もいる。
とても、ありがたい。
なんて、人に恵まれた人生だろう。
楽しいよねー、この三次元世界。
凹んだら、上がるだけだし。
作ったら、壊すだけだし。
壊したら、また作るだけ。
シンプル!
死後の世界を信じようと信じまいと、あなたは先人が生きていた証明そのもの
宗教観の違いもあるし。
不可視の世界への信頼感の違いもあるし。
人それぞれ...といったら、これほど「人それぞれ」のジャンルもないだろうな、って思うのが、死後の世界への感覚。
私は、見えない世界と否応なく関わることになったけど「実はそんなに信じていない」派の一人。
信じていないのは、見えない世界があるかないか...ということではなくて。
神がいるかいないか...ということでもなくて。
守護霊(守護天使でもなんでも呼び方はそれぞれで)がいるかいないか...ということでもなくて。
輪廻転生があるかないか...ということでもなくて。
そういったものが、どのように、今生きている人が生きている世界に関わってくるのか...という、その手段というか。
その手段を私物化する人間というか。
とりわけ、自分の上に降ってきてるように感じる伝令やら、なんやかんや...やら。
要は。
「今生きている人間が発する、見えない世界についてのウンチク」
の多くを、信じていない...ということ。
結局誰の言うことを採用するか...という問題だ、と私は常々思っている。
アチラの○○氏が言うことは全く採用する気になれないし、なんなら話にならない。
でも、同じようなこと言ってるように見えるこちらの方達が発する言葉は、とてもすんなり受け取れる。
そんな感じ。
だから、結局は、「誰を信じるか」という話になる。
鰯の頭も信心から...ということわざもあるけれど。
受け取る側の感じ方一つだな、って思う。
「どのように受け取らせるか」というのは、発信者の考えるところで。
実はまるで嘘っぱちを「うまく信じさせる」術に長けているのが、エセ教祖だったり、エセスピ伝道者だったりするわけで。
そういうのにひっかかって深みに入る人達もたくさんいる。
自分自身がそうならないように、実に慎重に、気をつけてもいる。
そうしていると。
自然に、流れって、偏っていくのだ。
同じ神の話や、龍の話をしている人達にも、まるで相容れない説を広めている人達もいて、そういう人達やその説を信じて指示されたように何かしている人達とは、相容れない。
別に流派があるわけではない(いや、作っている人達もいるかもだけど)けれども。
自然に、信じて受け入れる人達の流れは、決まっていく。
神の言葉を人につなぐ仕事をしている人の中にも、死後の世界観は大きく違う場合がある。
人は死んだら光になる(個人の意志や記憶は消える)と言う人もいる。
その人の世界では、そういう風に捉えるようになるに至る出来事がたくさん起きてきて、結果としてそのように考えるに至るのだ。
同じように。
死後の人は肉体がなくなっただけで、個々の人格的な要素や記憶の要素は変わらずあり、同時に見えない世界の仕組みを知る...と説く人もいる。
肉体のある時よりもずっと幸せ(苦痛などがないため)だと。
人は、この苦難に満ちた三次元の世界に、なぜ、生まれてくるのか。
「この世には、チャレンジするために生まれてくるのだ」
そんな説を聞いたことがある方もおられるのでは?
死後の生活が幸せで安らぎに満ちているのだ...とすると。
確かに、この三次元の世界に受肉してくるというのは、そもそもチャレンジでしかない...と、思える。
そう思えば、この世界では「成長する」ことがこれほどまでに重要で、意味を持つことだ...というのは、すんなりと納得できる。
納得するしかない。
私は?
死後の世界。
見たことがないし、行ったこともない。
だから、それを「こういうものですよ」とは、言えない。
死んだらわかるから、いいか...と、思っている。
でも、この世界に今も生きている人に、以前生きていた人から、伝えたいことがある...という時があるのだと。
そういう時、仲介できる「今生きている人」がいるのだ、と。
そのことは、かなり、よく理解できてきた。
それらの「世界の構造」がどうであれ。
そういう現象は実際にあるし、仲介できる人もいるのだ。
2018年1月31日。
東京で開かれた「公開ミディアムシッティング(霊視)」というものに、同席させていただいた。
以前この世に生きていた今は肉体のない人から、関わりのある今生きている人へ。
ミディアム(霊媒)を通して、伝えたいことが伝えられる。
そんな現場。
2時間のその公演の様子はノーカットでビデオ撮影された。
ミディアムは、大阪の奄海るか先生。
私はスタッフとして参加し、ビデオが止まってしまっていないかを時々確認しながら拝見していた。
公演が終わってお客様が席を立った時、ビデオを見たら、バッテリーが切れる寸前だった。
るか先生の昨日のレポ記事
伝えたいことがあって訪れた「あちらに行った方」と、時にはその方の記憶が薄れていたり実際には会ったことがない血縁だったりの「今生きている人」。
るか先生の友人の私は、彼女のことをとても好きな一人だ。
しかし。
もしそうでなくても、あの会場にいれば、あれが仕込みなどではない「リアルな出来事」だと、わかるだろう。
亡くなった方達は、生前の関係がどうであれ、愛しかない。
そんな風に伝えている、サイキックミディアム奄海るか先生。
「もしかして、あの人?」
と、おっかなびっくり自分の縁者ではないかと手を挙げる人の様子を見ていても。
最後まで自分の縁者と確信を持てなかったにも関わらず、話を始めるともう納得するしかなくなっていく人達の様子を見ていても。
少なくとも、こうして話が成立する&穏やかに過ごしていると知ることもできるだけの情報をもたらしてくれる「向こうへ行った人達」がいるのだと。
そこは、そのまま、受け取れる。
私には、会ったことがないどころか私がこの世にいることすら知らずに他界した父方の祖母と伯母、母方の祖父がいる。
もしもその二人が来られたとして。
特徴を言われても、わからない自信がある。
生前関わりがあった方でも、特徴を言われてもわからないかも知れない。
でも、そんな風に「今生きている私」は、それらの人達がこの世にいたことの証明でもあるのだ。
ミディアムシッティングというのは、日本では馴染みがないのだけれど。
心霊研究の本場とも言える英国では馴染みのある方法なのだそうだ。
日本で今、公開してやっているのは奄海るか先生一人だと思う。
きっと、これから、多くの人が必要とするようになる。
名古屋でも開催したいなと、画策してみよう。