旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

【伝言】祭祀と芸術、人の本能とは 「存在する」ということそのものへの賛歌

原初より、人は神を求める行動の中で様々な発明を成してきた。

言語も、文字も、芸術も、そうしたものの一つ。

あらゆる創造物は人が神へ捧げるために生み出された。

それゆえに、そられは人自身をも慰め、高めることができる力を持つ。

 

人の捧げ物とは、人が神と適正なる取引を行う場合の対価となり得る。

 

忘れてはならないのは、もともと人というのは、神やそれに並ぶ存在、それ以上の存在により、存在を許されているということだ。

生かされているのだ。

そして、人が存在しなければ、神も神として存在することができぬ。

この点で、神も人も、基本的には同等なのである。

 

ただし、神と人とではその背負う役割の大きさが違う。

また、時間や空間の概念も全く異なる。

 

人の時間と神の時間は、全く軸が異なる。

人が認識できる時間の単位と、神のそれとは、まるで次元が異なる。

 

今起きることは、何世代も以前の先祖が捧げた願いの成就である、ということも珍しいことではない。

あるいは、何度も生死を繰り返した後のその該当する魂の器に対し、成就が与えられる場合もある。

しかし、その仕組みを理解する者は少なく、また、そうした者の教えることを全うに受け入れる者は更に少ない。

ゆえに、神が常に成就を与えていることを、人はなかなか理解せぬのだ。

 

 

ここで「神」と呼んでいる存在については、そもそもの適正な言語が人には与えられておらぬ。

人は苦心して、それを表現する術を編み出してきたが、どれも、近いようで遠く、遠いようで近いというにとどまる。

 

なぜそのような仕組みになっているかといえば。

それが、多様性の発祥となるからである。

 

一つの表現を与えれば、他の表現が生まれる機会はそれだけ失われる。

 

一つの表現に観念が収束することは、発展性を阻害する。

 

人は今も、無限に、新たなる表現を生み出し続けている。

解けぬ謎の存在は、その原動力である。

 

人とは、疑問を持つことにより、種すら超える驚異の変化を遂げる。

そのように、成り立っているのが、人である。

 

 

しかし。

神への適正なる捧げものを携える人は、少なくなっている。

それが意味するのは、神の力の衰えであり。

同時に、人の繁栄の陰りでもある。

 

祭祀を司る者が少なくなったという意味ではない。

祭祀とは、神のためではなく、人のために人が考え出した繁栄のための表現の一つである。

それを執り行うことにより、人は神を想起し、願いを馳せる習慣を取り戻す。

人の中に求心力を与える。

祭祀という行為そのものではなく、それによって人の中に興る想いが神への最高の捧げ物となる。

 

ゆえに。

祭祀によって興る人の神につながる情動と同等の想いを沸き立たせ得る手段のもう一つである、芸術が大切になるのだ。

 

芸術とは、「存在する」ということそのものへの賛歌である。

言語を仲介せずに想いの想起を高めることができるのは、芸術の優れた美点である。

人が体を使って表現する芸術、道具を使って表現する芸術。

いずれも、祭祀と同等の至高の供物となる。

祭祀の中に芸術が含まれるのは、相乗効果が得られることを人が本能的に知っているからである。

 

その「本能」とは。

人も神の一部である、という、根源的な構造のことを指す。

 

 

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【伝言】異質なものを恐れる 己の弱さに対峙できない自己憎悪が元凶

親しんでいるものと異なる態を示すものを、人は無意識に恐れる。

それは生物としての本能であり、消すことはできない。

 

ただし、現代においては、その働きが弊害になることは多い。

 

理解できないもの、異質に思えるものに対峙した時不安になるのは、やむを得ない。

ただ、そこで攻撃に転じるのは、己の中に「そうせずにいられない弱さ」があるからである。

 

 

人は、まず、「弱さ」というものと正しくつきあう必要がある。

 

弱さとは悪ではなく、欠点でもなく、矯正すべきことでもない。

弱さのない人間は誰一人存在しない。

人が人の弱さをあげつらう時、その者が見ているのは常に、「己の中の弱さ」であり。

「それを忌み嫌わずにいられない間違った刷り込み」であり。

自己嫌悪、自己憎悪である。

 

弱さを忌むべき欠点と捉える者ほど、そこに囚われ、攻撃に転じる。

弱さを利用し不正を働こうとする者もまた、人の弱さを受け入れない。

 

人が恐れるのは、「異なるもの」ではなく、それに対峙した時に喚起される「自分の弱さ」に他ならぬ。

 

人の弱さなどは、小さな一要素にすぎぬ。

誰しも内包するものであり、恥でも欠点でもない。

 

恥や欠点となり得るのは、弱さを無自覚に武器とする姿勢であり。

たやすくその沼に落ち、何度も繰り返す己の在り方である。

 

あらゆる攻撃性の根にあるのは、自己憎悪であり。

それを認めることもできぬ弱さが、全てを狂わせていくのだ。

 

 

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伝言シリーズはあと5記事 それについての未熟者として考察

水平線で仕切ったところから下の文章は、昨日の夜にぶつくさ言いながら書いた。

おとといと昨日たくさんUPした伝言シリーズについての愚痴。

でも、書いて、書いたというだけで気分がちょいと収まったので、UPするのはやめていた。

 

そしたら、その直後に、これを止めるための手段を某氏

(あえて匿名にしておくけど、大阪の方)

から教えていただき。

なるほど、「終わらせる」って、そういう手段をとればいいのか~と大いに納得。 

 すぐにその措置をとり。

以後、状況が落ち着いている。

 

終了の約定として、あと5本記事をUPする。

大量に記事ネタは送られてきていたが、解凍に至っていないものは受け取り拒否をした。

そして、解凍済でなおかつ文章化が始まっていたもののうち5つ分のみを受け取った。

 

今日1本。

あとは一日1本ずつUPする。

記事はもう書いてある。

 

 

本件について、いろいろと考えてみた。

 

とどのつまり、私はまだまだ全然、術師道については何もわかっちゃいない。

それは知ってたけど、自己認識以上にわかってないようだなと感じた。

 

言葉の使い方。

自分の人間としての思考の癖や弱点。

線引きの仕方。

まあ、どっちみち、座学じゃよくわからないままだろうから。

実践あるのみにしちゃスパルタだな、って思ったけれども、効果的な学習方法ではあるのかも知れない。

 

 

私のブログって、おそらく、スピリチュアル系の道筋にいる人か、そこに入りたい人が読んでくれてるんじゃないかなと想像している。

統計をとったわけじゃないけど。

(全くそういう世界に関係のない方にも読まれているのも知っているが)

 

なので。

昨夜ぶつぶつ思いながら書いたものも、もしかしたら、誰かにとって小さい波紋を起こす小石になる可能性はあるな、と考えた。

ので、UPしておく。

 

私の見えない世界的な学習は主に、実地訓練だ。

天使の頃は座学や講習会にも参加して、いくつか資格もとってきた。

エンジェルヒーリングに、瞑想ファシリテーター。

カードリーダー。

他にも細かいものをいくつか。

教え手に疑問を持ち、受けたこと自体を表に出さないことにした、というものもいくつかあるし。

レイキもサードまで持っている。

しかし、そういった一般的な学習以外の、実際に自分で見えない世界から来るあれやこれやと対峙しつつ身をもって感じてきたことの方が圧倒的に経験値として有効で。

逆に言えば、自分が経験していないことについてはまるで無知である、ということだ。

 

神も龍も、教えてもらったことがないけど何故か知ってるとか。

そんなことの方が多くて。

教えてもらったことは、意外に、「そうなの???」と首をひねることも多くて。

 

けれど。

自分よりもずっとずっと、この世界の奥深くまで見て知って体験している諸先輩方に恵まれているおかげで、いろんな微調整をしてもらえている。

本当に、ありがたいと思う。

 

未だに、直接人の役に立てるようなことは何もできないけれど。

 

それでも、私にしかできない仕事というのがある、ってことを疑ってない。

 

伝言シリーズも、私としては、もう少し見た人が穏やかな気分になれそうなことを送ってきてもらいたいものだ、とは思うのだけど。

私の言語化の感性が、ああいう「ど突き系」の方に合っているのは認める。

Facebook上では、「まるで津波」というご感想もいただいた。

絵もそうだけど、実に、見る人を選ぶ。

万人受けからは、ますますもって遠ざかっている気がする。

まあ、仕方ない。

言縁占符(ことよりせんふ)のメニューにしても、人を選びまくるものだしな。

 

 

 

下の線以下は、昨夜のやさぐれ中の文章だ。

ここで読むのやめてもらっても全然、OK。

画像は、那智の瀧。

この下降口のしめ縄のところをちゃんと見たくて、すごいズームで撮った一枚。

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祓い給へ清め給へと かしこみかしこみ申す


 

確かに筆先を引き受けたことに間違いはないし。

術師的絵描きとして動くってことも、了解している。

だから、大筋で異論はない。

 

が。

 

できることとできないこと、やりたいこととそうでもないこと、ってのが、ある。

 

 

できないことをやろうとして、できることができなくなる。

そうでもないことにエネルギーをとられて、やりたいことができなくなる。

 

...というのは。

真っ平ご免。

 

だから、伝言シリーズの手を、緩めてもらおうと交渉をした。

すでに送りつけられてきているパケット(私には、言語化する前のイメージがそういう風に感じられる)を、内なる鬼達に返送させようとした。

 

今日は、閻魔様にいろいろと持ち帰っていただける日だ、と教えてもらったので。

 

まあ、いってみれば。

鬼達の社長みたいなもんだ(と思う)

だから、鬼達も、いつもは喜んでいろいろやってくれるものを、すごいイヤな顔をした。

しょぼーんとした。

 

そしたら、ついつい、同情してしまい。

言縁百式符を書き終わるまではカンベンしてくれ、と。

うっかりすぎる発言をしてしまい。

もう、出した言葉は戻せない。

 

しかし。

パケットの送信が、今、緩まっている。

すでに届いている解凍していないものは返送されていないが。

こちらへの転送量が明らかに落ちた。

 

 

 

 

今日は朝からいろんなことが起きて。

ちょっと、うんざりしている。

珍しく、お腹を下したし。

気がついたら、朝から断食状態だったし。

まあ、下したからそんなに食べられないので、いいんだけど。

脳を一部だけ酷使した感じでヘンな頭痛がする。

おまけに、思う以上にヘバってしまい、家族に話しかけられてもろくに受け答えできない始末。

 

ああ、はいはい。

修練が足らないのね。

ええ、そうでしょうよ。

知らんがな。

 

って。

やさぐれてきそうなので、今日は店じまい。


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