実験を通して考えた「モニター」という表現〜安易にありもの表現を使うと核心がブレる
ある一連の流れの中で、「モニター」という表現について非常に考える機会がありました。
価格設定について、友人の助言がいくつかあり。
その時、私は大して考えもせずに、「試験運転」というざっくりした枠として「モニター」を使いました。
が。
友人は、私の今回の試みは、私にとっては初めてであるとしても、「私が描く」という点においては全く、初めてでもなく試運転でもない、と思ったわけです。
人から感じる見えないけれども確かにある何か。
それを描く、ということ自体は、私は天使時代からずっとやってきたことなので。
試運転もクソもない。
なのに、なんで、今更まだモニターだ?
と、いうわけですね。
確かに。
「モニター」という表現をするならば、その通り。
その時テーマになっていたのは「写真に描く」という手法。
確かに、それ自体は今までやってはいない。
しかし白い紙にゼロから描き出す、ということについては、やってきたわけです。
一定の確信も、私自身、持っています。
人物画も自分で描くか、その方自身が写っているものをベースにするか。
違いは、それくらい。
実際、やってみると、私にとっては全く問題のない「違い」でした。
ただ、今回の試みには、そういうことではない「試してみないと何とも言えない」という大きな要素がありまして。
それを試すための、実験でした。
「続けられるかどうか」を、試すフェーズです。
なにしろ、一番の大敵は、私自身。
私のメンタルが、私の手の要求に耐えられなくなる…というケースが、今までにもあったので。
だから、自発的に始めたことが好感触だったからといって、いきなり本価格で「はじめました」と言うのは嫌なのです。
そういう意味で、助走期間として考えているのを、あまり深く精査せずに「モニター」と表現したから。
そういう隙を見逃さない友人には、「何を言ってるんだコイツ」と、映ったのだと。
実際の話、新企画をスタートするにあたって特価にしようとするなら、別に「モニター」なんて枠にしなくてもいいのですよ。
スタート価格とか、オープン記念価格とか、いくらでも表現はできる。
だから。
何が目的で「モニター」を取るのか?
そもそも、その試みが必要なのか?単に、最初から正規価格で勝負するのを避けているだけ、という消極的な話ではないのか?
てことは、考える必要がありますね。
安易に、今ある表現を借りてくるってことの危険性を、こんなことで実感してしまいました。
オリジナルのものを作ろうとしている時は、ありがちな表現を安易に使うことで、核心がブレることがあります。
自分がやろうとしていることが、本当に「その表現」であってるのかどうか。
常に、多角的に考えてみる習慣を持つって、大切です。