ヒーリングと絵についての考察ツイートまとめ
昨日のヒーリングの記事をUPした後、寝て起きるまでの間に、この件はもしかして、私自身がもう少し掘り下げて書いておくべきことなのでは...と思って。
朝、他のことを始めてそれ忘れてしまう前にメモっとけ、とばかりに144文字制限の中でつぶやいた。
ひとまずそれをここにまとめておく。
絵は見る人のものだ。絵がどう見えるかは、受け手がどう感じるかということ。描き手の思いは、それとしてあるけども、そんなのは自分の中にだけあればいいこと。どう見るか=どう見られるかは、100%見る人に委ねられるもの。意図しない見方をされても、それはそれでいいのだ。(続)
— 異界龍画師 緋呂/神龍の具現化職人 (@HIRO_eshi) 2017年10月13日
(承前)描き手が絵を本当の意味で完成させることは、あり得ない。仕上げるのは常に観客だから。受け手の見方次第。感じ取るもの次第。絵は、受け手の世界観を映す媒体であり、それ自体が振動波を出すものであり、受け手の中にある何かが共鳴して初めて、そこに固有の存在として成立するもの。(続)
— 異界龍画師 緋呂/神龍の具現化職人 (@HIRO_eshi) 2017年10月13日
(承前)故に観客不在の絵は完成することはない。「絵」という文字は糸に会うと書く。映された意図に出会うのは常に受取る側である。縁の糸に引き合わされて、絵と観客は出会う。そこで生まれる共鳴音の波が受け手に何らかの反応を及ぼし、それが感情などとして認識される。それこそが最後の一筆である
— 異界龍画師 緋呂/神龍の具現化職人 (@HIRO_eshi) 2017年10月13日
絵を見てヒーリングとなるのは、見る人にそのスイッチが作動した時。絵そのものに蓄電されたエネルギーだけで起きることではない。むしろ絵そのものは呼び水でしかなく、ヒーリングを起こしているのは見る人の持つ力。絵は触媒である。私は絵がその絵としてそこに在れるように物理的に画を起こすだけ。
— 異界龍画師 緋呂/神龍の具現化職人 (@HIRO_eshi) 2017年10月13日
絵師の世界観というフィルターを使って、観客のあなたが自分自身の世界観と出会うために、絵は在る。私の世界観はあなたにとっては異界で、あなたの世界観は私の異界。両界が合わせ鏡となる時生まれる反響波が一番大事な絵の要素。絵そのものはパーツで、主体は観客。
— 異界龍画師 緋呂/神龍の具現化職人 (@HIRO_eshi) 2017年10月13日
こんだけ書くと、そもそも最初からブログの投稿画面に打ち込めばいいんじゃないのか、って話だけど。
書き始めた時はそんな長くなるとか思わないからね...こういう時って。
そんでもって。
「ブログの投稿画面に打ち込む」のと「Twitterの投稿画面に打ち込む」のと、なんか心構えというか...姿勢とか、違う。
ブログの文章は気負うけどTwitterはそうじゃない...ということではないのだけど。
ブログも別に気負ってはいないので。
そうではないけども、文字数制限があるところに書く、というのがいいという時があって。
制限のおかげで、思考も同時に区切れる感じ。
区切れてないから、こんな感じに連投で書くことになっちゃうのだけども。
それでも、144文字の中に一通り「かたまりにまとめる」ことができるので、テンポよく思考を運べる、っていうのはある。
ブログに書くかTwitterに書くか論みたいな補足になってしまった。
私が「画家」ではないと思っている理由も、上のツイート群の中にある。
作っているものが「画」ではなく「絵」だということ。
単に文字の違いではない。
だから龍画師という後で作ったサブ肩書きを結局使わないで「異界絵師」だけ名乗っているんだけど。
単語として「画」を使うしかない時は画を使うのだけど、基本的に「画」と「絵」を別物と考えている。
もちろん、そんなのは「私の勝手なこだわり」であり、人には全く関係ないどうでもいい話だというのは承知している。
名刺を増刷しなきゃならなくて。
増刷するなら中身も変えるか?とか、思っていて。
異界龍画師という肩書きの名刺を一度作ったことを思い出した...という流れもある。
セルフマガジンと絵柄を合わせた名刺を今増刷するっていうのが、なんか気分じゃないので。
多分、新しく作ることになるだろうけれど。
(いや、もう作らんとさすがに間に合わない)
ちなみに、多分もう使うことがない異界龍画師の名刺はこれ。
裏面は白紙です。
新しい名刺が、この絵柄のまんま肩書きだけ直したものになってたら「やる気出なかったんだね」と思ってね(笑)
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