【伝言】学びという泥船から飛び込め
「学び」がなぜ都合のよい逃げ場になりやすいと思う。
それは、誰にでも明確にわかる基準というものがないからだ。
ある一つのジャンルで、なにがしか一定の形を成したいとして。
たとえば主のその「手」の技を発揮するものを考えてみよ。
それは、見た目に、ある程度は誰にでも、到達点が見えるものだ。
好みの問題はいざしらず。
技能レベルとして見た時に、優劣は比較的見えやすい。
そういう種類のものについて、人は挫折しやすい。
なぜなら、目に見えるからだ。
努力の跡が。
しなかったことの跡が。
しかし、概念の学びについてはどうだ。
基準はおろか、解釈すらも個々に委ねられる。
吟味すれば優劣は見えてくるが、それも決定的に大切ではない。
よって、どのレベルの者でも、一定の「やっている感」を得ることができる。
学業成績のように点数が振り分けられれば話は別だ。
国家資格のような合否判定がはっきりしているものも、別だ。
やったこと、やらなかったことが明白にカタチとなるものを、多くの人は避けたがる。
正解もない、ゴールもない、発想は自由。
そんな世界を学ぶことは、はっきりと「現在地」がわからないという点において、突きつけられることを避けたい者には都合がよいのだ。
だが。
そんな泥船に乗っているだけでは、どこにも辿り着かぬ。
自ら流れに飛び込み、身一つで泳いで渡ることなしには、学びは身につかぬ。
次の舟に辿り着けば、そこでまた必要な学びに出逢える。
お主の場合。
「全てを動かす」ことが、泳いで渡るに相当する。
半端に半身だけ浸しておらず、頭から飛び込め、馬鹿者。