自分を知り、等身大の目測を持つ。大事だけど難しすぎる「自己把握」
自分の能力や特性、キャパシティなどを正確に把握できるということは、ものすごく大事なことだ。
そして、とても難しい。
多く見積もりすぎても、少なく見積もりすぎても、よくない。
そんなことは、わかってる。
けれど、それができれば苦労しない。
本当に、そう思う。
私から見て、だいたいいつも自分を把握できていそうな人ですら。
それに悩んでいる。
できてるように見えるのに。
本人にとっては、自分が一番わからない、と。
私だけじゃない、こんなスゴイ人ですら。
て、思わず安心してしまうのだけど。
安心してたら、いけないのだ。
その人の「自分がわからない」と、私の「自分がわからない」が、同等であると誰が決めたのか、という。
実は、今またそのことに度々、意識が行くのだ。
はじめて手がけることをいろいろ、やっているから。
それも、自分の中では禁忌の領域と背中合わせになっている、けっこうスレスレに危険な線上にあることを。
自分の手が創るものを、作るようにして作り、そのまま送り出す。
私には、それしかできない。
だから、「できあがるようにしか完成させられない」のだけど。
決して、私本人が向上努力を怠っているってことは、ない。
ないが。
手がやることを把握できないのもまた、事実で。
実になんというか無責任なんだけど。
私は自分のキャパシティやら能力値やら、本来把握しているべきことであろうはずの項目を、ほぼ、想像でしか把握できていない。
限界まで頑張ったことがない、というとひんしゅくかもだけど。
実際、そうで。
体力と精神力が先に尽きるため、能力値の限界がわからない。
アルコールで言うなら、酔ってないけど体が受け付けず吐いてしまう的な。
私は、エネルギーの動きとかも、意識の方はまれに把握できることがあるレベル。
それを、「鈍い」と思っていた。
が、つい先日、とある人の何気ない発言から、そういうことじゃなかったんでは?疑惑が出てきた。
そのときの話を意訳すると。
「大きいタンクを持った人と、小さいタンクを持った人。そこから同じ分量だけを取ってきても、小さいタンクの人の感じる<減った感>は、タンクが大きい人は感じにくいはずだよね」
「そのタンクを持っている人の技能が高いか低いか、ということは、タンクの容量自体には関係ないことで、技能が高くてもタンクが小さい人もいれば、逆もいる」
「自分のタンクが大きいかどうかなんて、条件を揃えられない限りは比較できないから、気がつくわけがない」
総合すると、その人の言い分は
「あんたはタンク容量が大きいから、他のハイレベルな能力を持っている人が疲弊する分量を放出しても、そうそうヘバったりしないし、減っているかどうかも実感しにくい」
一目盛りの単位がcmの定規で1mmを測るのは難しい。
そんな話。
けれど私は、自分がほぼ無能であると思っている期間が長かったし。
実は今もそうではないかと思っているし。
いやいや、それはアナタの買い被りってもんでしょーが。
なんて、言ったわけだけど。
もしかしたら、それは可能性として、あるんじゃないだろうか.....
なんて思ってしまうような現象が、起きてしまったり、ってこともあり。
だけど。
今でもやっっぱり、自分が大きなタンクの所有者(これは例え話ですよ)であると言ってしまうには、どうにもこうにも図々しい感じが拭えないし。
自己認識ということの難しさを、しみじみと、つくづくと、実感しているのであります。
でもたぶん。
「あいつはあんなこと言って図々しい」とか
「自意識過剰にもほどがある」とか
そんな類いの揶揄をぶつけられるのが怖いのだなあ。
とは、思っている。
そういう「聞く必要のない心の声」は、ずいぶんとスルーできるようになってきたのだけど。
自分だけの法則、というものを、確立したいものだ。
そのためには、実践するしかないのだけど。
ということで、今、いっぺんにたくさん、動かす羽目にもなっているのだな、とはわかるのだけど。
何より一番ウザいのは、こんなことばかり考えてしまう小心さだな。
やれやれ。
言縁占符(ことよりせんふ)の「尋」と「秤」