「その人が視るべきものを映す触媒を提供する」
先日、こんなことを書いた。
今私が主に販売しているのは龍印画。
他の神仏画も販売はしていますが、力入れているのは龍印画。
これから、「言縁占符」(ことよりせんふ)のメニューも出していきます。
そのどちらも、「モノ」としてではなく、「見えない世界的なエネルギーも含めたモノ」です。
護符やお守り系の、物理的なモノの価値だけでは存在しない商品になります。
もちろん、神や龍や天使の絵も、その領域。 人が価値を見いだすポイントは、絵そのもの以外の部分に依るところが大きい。
昔は、正直言うと、そういうのが嫌でした。
絵は絵だし、余分なところ見なくてもいいよ、って思ってた。
でも、今は、スタンスが変わってきています。
というか、自分の絵を適正に扱うようになった...ということだと考えています。
(この変化は自分の中ではすごく大きい。別に書こうっと)
VALUに登録してみて改めて考えている「自分の出し方」 - 緋呂の異界絵師通信
絵に何らかのエネルギーを求める、ということが、すごく嫌だった。
見てくれる方もスピ系の方が多くて、かなりの確率で、絵から何らかの体感を感じられているらしかったけれど。
私自身は、(仮に私本人にも、それらの体感があったとしても)絵は絵、という扱いをしてきた。
そこになにかの力を求める、という考え方がもう、嫌でしょうがなかった。
自分自身は何も、そこに入れてはいない。
というか、そういうつもりでは描いていない。
作品にエネルギーが注がれるなんてことは、描き手作り手からしたら当然のことで。
特別にスピリチュアルな意味を持たせようとしてのことではない。
○○神のエネルギーが入ってます!とかいうのが、とにかく嫌。
私は、その「私の絵ではないものの力」の方が前に出ることが嫌でしかたなかった。
そんなことはどうでもいいから、まず、絵そのものをちゃんと見ろ!
と、思っていた。
近しい人に、絵の完成後に「これに性(しょう)を入れてやる」とか「神様の力を入れましょうか」とか、言われた時の拒否感といったら。
特にそういう話をされる時は、二重に否定されたような気がしたものだ。
確かに、見えない世界の存在があって、その後で私の絵がある。
順番としては、その通りだ。
けれど、私は、私に描かせようとしてくる神々は、私が描く意匠によって現世に固定されることを求めているのだ、という感覚でいた。
だから、セルフマガジンにも、こんなこと書いている。
偉そうなことこの上ないが。
実際、そうなんだからしかたない。
他の人の絵のカタチで現れたいのなら、他の人に描かせるだけだし。
私に描かせるということは、その神は私の描くカタチで三次元化したいのだ。
それなのに。
なぜ、他人に、「力を注入」されねばならんのだ。
こいつらは、その言動が描き手の私を果てしなく貶めていると、なぜ気づかない。
私の注いだエネルギーだけじゃ不足だってのか?
そういうことが原因で縁を切った人も中にはいた。
自分から望んではじめたことでもないのに。
評価されているのかと思いきや、違うところにポイントがあったわけで。
いやもう。
本気で、そういうことを言われるのが嫌で嫌で仕方が無かった。
そんな時期が長く続いたのだけど。
それでも、だんだんと、私の受け取り方も変わってきて。
絵のどの部分に、どういう価値を見いだすかというのは、すべて、見る人の側の権利なのだ。
と、今は思っている。
どういうイメージを受け取ろうと、受け取るまいと。
そこに何を感じようと、感じまいと。
声やら音やらを聴こうと、聴くまいと。
すべてが、100%、見る側の自由だ。
私は作品を完成させる。
必要な手段はすべて講じる。
その後のことは、もう、私の領分ではない。
これは、逆に言えば、
「見えない領域まで、全部、自分の作品の一部である」
という拡大解釈に至ったということでもある。
理由があるから、その絵になる。
たとえ、描き手の私には理解できなくても。
だから、その意匠が何らかのエネルギー源となっているのなら、結局それも私の構築したものだ、ということ。
見えない何かが、そのように、在らせたのだから。
龍印画で、絵に法則を組み入れる、ということができるようになって。
その感覚に、一定の根拠が与えられた。
そこから逆算するような形で、龍印ではない絵も、結局は、私の頭が知らないだけで手は知っている法則に従っているのだ...という考えに至った。
術師として描いていくんだな、という自覚が出てきたのも、それがきっかけ。
もっとも、他人に「それにエネルギー入れてやろうか」とか言われたとしたら。
以前はすごく嫌でもテキトーに受け流していたけれど。
今だったら、二度と言うなと釘刺すくらいはする。
他人の手は借りない。
それは、異物だから。
私の描くもの、作るものは、どれも皆、
「見る人の視たいもののための触媒」
にすぎない。
主役は、見る人であり。
手に入れてくださる人。
その人がそこに視たいものを映す。
龍印画は、一定の方向性を実際に画中に刻み込むけれど。
印を入れない絵も、それは同じことで。
龍体文字を用いない/働き方が違うというだけで、本質的には同じこと。
以前から、私は「たった一人のための神具を作る職人でありたい」と言い続けてきた。
けれど、その意味が本当に腑に落ちてきたのは、最近のことだ。
何の絵を描こうと、何を造形しようと、カードを使おうと、やるべきことは一つだけ。
「その人が視るべきものを映す触媒を提供する」
これだけだ。
そして、これからたぶん、さらに偉そうになるだろう(笑)
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