旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

「その人が視るべきものを映す触媒を提供する」

先日、こんなことを書いた。

 

今私が主に販売しているのは龍印画。

他の神仏画も販売はしていますが、力入れているのは龍印画。

これから、「言縁占符」(ことよりせんふ)のメニューも出していきます。

そのどちらも、「モノ」としてではなく、「見えない世界的なエネルギーも含めたモノ」です。

護符やお守り系の、物理的なモノの価値だけでは存在しない商品になります。

もちろん、神や龍や天使の絵も、その領域。 人が価値を見いだすポイントは、絵そのもの以外の部分に依るところが大きい。

昔は、正直言うと、そういうのが嫌でした。

絵は絵だし、余分なところ見なくてもいいよ、って思ってた。

でも、今は、スタンスが変わってきています。

というか、自分の絵を適正に扱うようになった...ということだと考えています。

(この変化は自分の中ではすごく大きい。別に書こうっと)

VALUに登録してみて改めて考えている「自分の出し方」 - 緋呂の異界絵師通信

 

 

絵に何らかのエネルギーを求める、ということが、すごく嫌だった。

見てくれる方もスピ系の方が多くて、かなりの確率で、絵から何らかの体感を感じられているらしかったけれど。

私自身は、(仮に私本人にも、それらの体感があったとしても)絵は絵、という扱いをしてきた。

そこになにかの力を求める、という考え方がもう、嫌でしょうがなかった。

 

自分自身は何も、そこに入れてはいない。

というか、そういうつもりでは描いていない。

作品にエネルギーが注がれるなんてことは、描き手作り手からしたら当然のことで。

特別にスピリチュアルな意味を持たせようとしてのことではない。

 

○○神のエネルギーが入ってます!とかいうのが、とにかく嫌。

 

私は、その「私の絵ではないものの力」の方が前に出ることが嫌でしかたなかった。

 

そんなことはどうでもいいから、まず、絵そのものをちゃんと見ろ!

 

と、思っていた。

 

近しい人に、絵の完成後に「これに性(しょう)を入れてやる」とか「神様の力を入れましょうか」とか、言われた時の拒否感といったら。

特にそういう話をされる時は、二重に否定されたような気がしたものだ。

 

 

確かに、見えない世界の存在があって、その後で私の絵がある。

順番としては、その通りだ。

 

けれど、私は、私に描かせようとしてくる神々は、私が描く意匠によって現世に固定されることを求めているのだ、という感覚でいた。

だから、セルフマガジンにも、こんなこと書いている。

 

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偉そうなことこの上ないが。

実際、そうなんだからしかたない。

他の人の絵のカタチで現れたいのなら、他の人に描かせるだけだし。

私に描かせるということは、その神は私の描くカタチで三次元化したいのだ。

 

それなのに。

なぜ、他人に、「力を注入」されねばならんのだ。

こいつらは、その言動が描き手の私を果てしなく貶めていると、なぜ気づかない。

私の注いだエネルギーだけじゃ不足だってのか?

 

そういうことが原因で縁を切った人も中にはいた。

 

 

自分から望んではじめたことでもないのに。

評価されているのかと思いきや、違うところにポイントがあったわけで。

 

いやもう。

本気で、そういうことを言われるのが嫌で嫌で仕方が無かった。

 

 

そんな時期が長く続いたのだけど。

それでも、だんだんと、私の受け取り方も変わってきて。

 

絵のどの部分に、どういう価値を見いだすかというのは、すべて、見る人の側の権利なのだ。

と、今は思っている。

 

どういうイメージを受け取ろうと、受け取るまいと。

そこに何を感じようと、感じまいと。

声やら音やらを聴こうと、聴くまいと。

 

すべてが、100%、見る側の自由だ。

 

私は作品を完成させる。

必要な手段はすべて講じる。

その後のことは、もう、私の領分ではない。

 

これは、逆に言えば、

「見えない領域まで、全部、自分の作品の一部である」

という拡大解釈に至ったということでもある。

 

理由があるから、その絵になる。

たとえ、描き手の私には理解できなくても。

だから、その意匠が何らかのエネルギー源となっているのなら、結局それも私の構築したものだ、ということ。

 

見えない何かが、そのように、在らせたのだから。

 

 

龍印画で、絵に法則を組み入れる、ということができるようになって。

その感覚に、一定の根拠が与えられた。

そこから逆算するような形で、龍印ではない絵も、結局は、私の頭が知らないだけで手は知っている法則に従っているのだ...という考えに至った。

 

術師として描いていくんだな、という自覚が出てきたのも、それがきっかけ。

 

もっとも、他人に「それにエネルギー入れてやろうか」とか言われたとしたら。

以前はすごく嫌でもテキトーに受け流していたけれど。

今だったら、二度と言うなと釘刺すくらいはする。

他人の手は借りない。

それは、異物だから。

 

 

 私の描くもの、作るものは、どれも皆、

「見る人の視たいもののための触媒」

にすぎない。

 

主役は、見る人であり。

手に入れてくださる人。

 

その人がそこに視たいものを映す。

 

龍印画は、一定の方向性を実際に画中に刻み込むけれど。

印を入れない絵も、それは同じことで。

龍体文字を用いない/働き方が違うというだけで、本質的には同じこと。

 

以前から、私は「たった一人のための神具を作る職人でありたい」と言い続けてきた。

けれど、その意味が本当に腑に落ちてきたのは、最近のことだ。

 

何の絵を描こうと、何を造形しようと、カードを使おうと、やるべきことは一つだけ。

 

「その人が視るべきものを映す触媒を提供する」

 

これだけだ。

 

そして、これからたぶん、さらに偉そうになるだろう(笑)

 

 

 

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