数年後の自分へ向けての独り言~見えない世界の禁忌領域
この記事は5日ほど前に書いて、なんか画像入れたいけどイマイチ何がいいか思いつかなくて、そんな理由で下書き保存してあったものです。
龍印画も鬼繋ぎまでもをスタートしちゃった今になってUPするのもどうかなと思ったんだけど。
数年後の自分に向けて、あげることに。
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もしかすると「は?今更何を言ってんの?」と、思われる方もおられるかも知れないことを、書く。
まあ、そう思ってもスルーしといてもらえれば。
グタグタ言いたいだけの、それもそろそろ最終段階にさしかかってきてると薄々思っていつつの、単なる繰り言なので。
どうやら、私は、いよいよもって、見えないものを扱うことを具体的に、やらなきゃならなくなるらしい。
いや、龍覚醒とかやってるやん何言ってんの…っていう話なんだが。
そうなんだけど。
自分的には、三次元のモノに具体化する…絵を描くとか、モノを作るとかね。
そういう「カタチを固定化する」というところ以外には、やらない予定だったんだよね。
えっと…
つまり、だ。
絵を描くとか、陶器を作るとか、なんか、そういう「形態」を物理化する、っていう範囲の中に、私は今まで、「式」とか「仕組み」とかを入れ込む系のことは、全然考えてこなかった。
結果的にそんな気配がするものになってしまった…っていうことは、あったとしても。
あくまでも、結果論であって。
そもそも仕組みを内包したものとしての想定はしていなかった。
そんな想定をするとも、思ってなかった。
が。
しかし。
どうやら、そんなこと言ってられなくなったらしい。
「これはやったほうがいい」
という気がして挙手してしまった龍覚醒。
その後には、龍体文字が続き。
今度は、あろうことか、仏様の流れを受けたことをやることにもなった。
いやいやいやいやいや……
私の周囲にいらっしゃる諸先輩方が、あまりにも突出してハイレベルな人が揃っているので。
私は、その方達の会話を聞きながら、ポカーンとしてるばかり…。
そんな状況に慣れてしまってるので、自分がどれくらい「わかる」のか、もう全く、わからない。
でも、人からはよく「わかる人なんでしょ」的なことを言われるし。
本当に見えてないのか聞こえてないのか…と、ものすごい疑われることも、時々ある。
きっぱり、見えてないし聞こえてないよ。
ただ、なんか、「流れ込んでくる」ことがある…そんな気がする…そこは否定しない。
私は絵描きだから。
描く、造るが仕事だ。
ただ、その作業が、「刻む」という方向にぐっと流れ始めたように、思う。
絵や立体に表現する…というよりは、「絵や立体も用いて刻む」感じ。
知ってる?
この世界は、西洋と東洋の文明が…その隆盛が、約800年周期で、入れ替わる…それをずっと繰り返しているんだって。
だいたい100年くらいかけて、クロスして入れ替わる。
今、まさに、その「クロスオーバーの100年」のまっただ中…なんだってね。
何で読んだのかイマイチ覚えてないんだけど。
今まさに、今までの800年くらい主流だった西洋の文明が下降して、東洋の文明(というか日本)がぐっと、隆盛になってきつつある時代なんだって。
私の中では、スサさんは、八岐大蛇を殺してない。
(天叢雲剣も、オロチの中から出て来たわけじゃない…私の中ではね)
ただ、一般的に定着している神話では殺したことになっていて。
そんな風に、なかなかに整合性が取れないことが、私の中にはたくさん、ある。
知らないことの方が多くて。
知っていることなんて、指先にくっついた砂粒くらいのもので。
けれど、時に、そのくっついた砂の一粒が、人生を変えることもある。
3月頃に、とある場で、
「10年経たないうちにですが、絵はもう描いてない。文字を使って何か作っていますね。文字と言っても普通の文字じゃなくて…古代文字みたいな記号みたいなもので、シンボルとして用いているようです」
と。
そんな「預言」を、もらった。
龍体文字が出て来た時、それをすぐに思い出したのだけど。
言われた時にはもうすでに、その流れは、しごく当然のことのように、受け止めていて。
まあ、そうなるだろうね…なんて、思ってた。
絵をやめてる(というか、描く必要がなくなっている…絵である必要がなくなっている、という意味)っていうのも。
別に意外ではなく。
その時、「意外ではない」と答えたことを驚かれたのだけど。
「私は今やってることも、今までやってたことも全部、単なる“触媒”だと思ってるので、それが絵ではなくなっただけの話です」
と説明したら、大いに納得された。
要するに、使いやすいものを使うっていうだけのことだ。
その時、使える手段を…より、適した手段を。
それだけのことだ。
大事なことは、「絵を描く」ことではないから。
ああもう…そんな発想を普通にしていること自体が、すでに、自らその流れに乗ってることを物語ってる。
見えない聞こえない人でありたい…わけではない。
実際に見えない聞こえない人だから、なかなか、抵抗感がなくならないだけだ。
でも。
目や耳を使うんではなく。
別の手段をもって臨むのなら。
というか、そうするしかないんだけど。
ムダに怖がりだからさ。
なかなか、思い切れないんだよね。
見えないもののことになるとね。
なんか、ほんと若い時分から、その領域に関わる禁忌の感覚が他の何よりも強くて。
まず先に、禁忌感(そんな言葉はたぶん、無いと思うけど…)が先に立っていて。
子どもの頃は普通に大好きだった「神話」っていうもの自体を、故意に避けていた。
ホラーネタとしては大いに好きだったけど。
小学生の頃に、見えない存在(九分九厘スサさん)に生命の危機を助けてもらったことがあるんだけど。
それ以外は特に大した神秘体験もなく。
これといった突出した感知力を発揮したこともなく。
ただ、空想力とキャラクターの構築力を、ひたすら、鍛えてきた。
当時は、小説を書くに始まる「創作」を、やってないとバランスが取れない若造だったので、おかげで生き延びたけど。
後に見えない存在と付き合うことになった時、その頃やっていたことが「前哨戦」に他ならなかったと気がついた時は、ほんと、暗澹とした気分になったもんだ。
最初の先生に、誘導瞑想やワークで感じたイメージというものについて
「作ろうとして作れるものじゃないので、それは<受け取っているもの>だと素直に受け止めなさい」
と、よく言われた。
でも、私にとって「ごくごく短い、断片だけのストーリー」を瞬間的に作り上げることなんて、それこそ日常茶飯事…得意中の得意なことだったので。
「いや、作れますから」
って、どうしても受け入れられなかった。
その感覚に、長く、葛藤があった。
「作っているのであろうと、なかろうと、結局は同じことだ」
と、納得するまでは、そのことがずっと引っかかっていたもんだ。
空想の中でなら。
創作品の中でなら。
いかなる禁忌の領域であっても、別に、表現してかまわない。
けど、それを、リアルに持ち込むとなったら、話は別だ。
髭オヤジだの暴れ牛だの頑固ジジイだのと、さんざんな悪態をついてきたけれど。
私は、私の後ろにいる(と思っている)見えないオッサンを、自分で言うのもどうかと思うレベルで、ものすごく信じている。
たまに、自分で失笑してしまうくらい。
だから、よけいに、こわい。
禁忌領域が。
それに近づかないためには、見えない世界に関わらないでいることが、一番いいのだ。
そうできなかったけど。
魅入られる、というのを実感したことがあるだろうか。
刀の刃の上を歩いているような感覚になることが、以前は、度々あった。
いつ何時真っ二つになるか。
あるいは、こちら側かアチラ側のどっちかへ…どっちかというとアチラ側へ…落っこちるのは今か今か…
そんな感じ。
今、あの感じがとても遠のいているのが。
逆に、なんか、こわい。
身の程も知らずに、深いところに入り込んじゃってるんじゃないのか…って。
匂いには慣れる。
そんな感じに、鈍くなってるのじゃないかな…ってね。
けどまあ、そんなことを言ってても、しょうがない。
臆病は長生きの秘訣だけど、緋呂の「ひ」は、外へ出て行く音なので。
引っ込んでいられるわけもない。
だからもう、やれと言われることは、やる。
鬼繋ぎも、声がかかった時は驚いたけど、断るという選択肢はなかったから。
今、なぜか押し押しでやってきている、文字系の流れも、断る選択肢はない。
龍体文字以外の別のも来てるし…
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ていうので、画像はもう、スサさんでいいや…ということで。
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