目の前のヒントを独自の論法で捨て去る愚かな理論派は永久に枠を破ることはできない
以前、仲良くしていた人に、「こういう時どうする?」と、尋ねられたことがある。
それは、その人ーAさんにとって重要な仕事に密接に関わることで。
Aさんは、それを「人によく言われて、そのたびに不愉快になる」ことだと言った。
Aさんには、よく起こることだそうで。
もし、あなたがそれを言われて不愉快になるとしたら、どういう風にしていく?
と。
質問されたことそのものが、私には起きえないことだったので。
あくまでも、想像上のことでしかないけれど。
私は、自分だったら…という「想定」のもと。
Aさんが、こういう風にしたら、少なくともその頻度が下がるのではないか…と思うことを、答えた。
複数の答えを用意した。
Aさんの技能からしたら、難しいことではない。
私は、そう思った。
でも。
Aさんの反応は芳しくなく。
1番目の答えには「でも、自分の●●は**だし、そういう風にはしたくない」と言う。
では…と出した2番目の答えには「でも**は△△だから、私にはそれはできない」と言う。
それでは…と3番目を出したら、「そうは言うけど、私の△△は●●だから、そんなのはイヤ」と、言う。
Aさんの言った「**だし」や「△△だから」や「●●だから」を、少し譲歩した内容に変えてみて、一緒に考えてみたけれど。
結局Aさんは、全てを却下し、譲ることもなかった。
その、ほぼ同じ内容を、別の機会に3回ほど、Aさんと会話した。
忘れているわけではなくて、「よくこの話するけど…」と本人も言ってた。
けれど、その全ての機会で、Aさんはとうとう、一言も譲歩することも自分の考えや行動を変えることも、なかった。
Aさんは達筆だったので、Facebookやブログをよく書く。
そこでも、何度も、その同じ話題(書き方や切り口はそのたびに異なるものの、テーマは同一)を繰り返していて。
Aさんが一番何度も主張していることは、
「だから私は、そういう心ないことを平気で言う人に不愉快な思いをさせられるのだ」
ということだった。
私は、Aさんとの交流を、ほんの上っ面だけのものに留めることにした。
以後、緩やかにフェードアウトした。
その「よく人から言われること」とは。
Aさんの「本業」に関わることであり。
その本業を、Aさんは「自分の人生そのもの」だと言った。
それだけで食べていけていたわけではないけれど。
「言われて不愉快」なことの内容というのは。
私から見ても「Aさんが改善すべき点」を網羅していた。
確かにそれを言われるのは、やむを得ないな…と、感じることだった。
むしろ、そこまで度々それを指摘される意味をなぜ、考えないのかと不思議になるような。
その点を何らかの対処をして武器にできれば、本業に絞って生きられるようになると、思えた。
ほんの少し、見方をずらせば。
Aさんの表現は格段に受け入れられやすいものになるはずで。
アピール材料は、増えるはずで。
Aさんでなくては…という動機に繋がるヒットポイントに変えられるはずの、ことだった。
それでも、Aさんの選択肢には、その改善はのってこない。
そして、グチだけが常に、出る。
人が自分を理解しない…誤解する…奴らのレベルが低いから。
今もAさんは、似たようなことを繰り返していると風の噂で聞いた。
きっと、ずっと、そのままなんだろう。
私はもう、そういうのには付き合う気が全くない。
だから、いつまでも言ってればいいと思う。
どれほどの技能の持ち主であろうとも、それをフルに活かす日は来ないだろう。
自分の狭い枠の中では、フルに活かしきって満足かもしれないけれど。
自分にとてもよく似た要素をいくつも持ち合わせている人だったから。
私にとっては、今も、生きた教訓そのもの。
愚かな理論派には、もう、戻りたくない。
それくらいなら、理屈ゼロの感覚だけで一点突破を繰り返したほうがいい。
かつては理屈優先だった私は、今は、心からそう思う。