負を消そうというのが根本にある「これから○○やります宣言」を読むと、逆に不安になるのだよ
文章からだけじゃ、人はわからない。
でも、文章からだけでもわかることは、たくさんある。
そして、文章からしか、わからないことっていうのも、あったりする。
人は多面体だから。
どっちが正しくどっちは間違っている印象だ…とか、ない。
どちらが本当のその人だ…とか、ない。
主人格はどっちだ…というのも、ない。
どれもが「その人そのもの」で、どれもが「欠かすことのできない、その人の一面」だ。
ブログやSNSの発信だけじゃ把握できないことはたくさんある。
でも、多くのケースに接しているうちに、だんだん、わかってくることがある。
「あれ、この人は、前向きなことを書いているけど、実際には<負を消そうとしている>ところから始まってるな」
「あれ、この人は、なんかヤル気なさそうでダルそうだけど、実はすごく内に秘めたものがあるな」
なんか、そういうのを、感じるようになる。
もちろん、それは本人に聞いて確かめてない以上、憶測にすぎない。
だけど、多くの場合、後で実際に会ってみたり、会った後に書いたものを読んだりすると、答え合わせができちゃうことがある。
それに。
多くのケースで、「本人は、無意識にやっているので、実はわかってない」んだよね。
特に「負を消そうとしている」動機で動いている場合は、本当に、本人気づかずにやっている。
自分では、違うことを動機だと思っている。
気がついてないだけだよ、って相手を決めつけるのは、私は好きじゃない。
だから、それを本人には言わない。
よほどのことがない限り。
私自身に実害が及びそうな時…とかね。
「こういう道でやっていくことにしました!」
って、いろんな人が書いている。
4月という季節的なこともあると思う。
その中で、実にいろんな方が、なぜか、
「負の要素」
の方を説明することに力を注いでいる。
それを決めるに至った道筋にあった「障害」や「制限」を、誰も聞いてないのに、すごく力を入れて書いている。
これからやろうとしていることへの情熱よりも。
希望よりも。
それを「決めなくてはならなかった」という「障害」や「制限」を課せられたという出来事を、すごく、一生懸命、書いている。
いいんだけど。
そういうのも、明文化しておくことで自分の理解が進むから、いいんだけど。
あまりにも、そこに傾いているのを読んでしまうと。
「障害/制限のせいで選ぶしかなかった」恨み…みたいなものを感じてしまうこともあって。
おお、それはいいね!がんばってね!
って、言いにくくなるのだなあ。
私はね。
何かから逃げているように、感じるから。
あるいは。
「どうかこんなわたしを承認して!」
って、感じてしまうから。
なんか、そういうのを続けていくつも見てしまったので。
ちょっと、悲しいというか…
これから○○します宣言ブログは、見ないことにしようかな…って。
思っている。
誰かに褒めてほしい、認めてほしい、救われたい。
そんな思いが滲み出る「やります」宣言は、書かない方がいい…って、私は思う。
だって、それを読んだら逆に不安になるから。
具体的に何が不安かわからないけど、なんか、ちょっと不安…っていうのが、一番根深い「なんか、関わるのやめとこうかな」の原因なんじゃないのかなあ。
(私自身も過去にたくさん、そういうのを書いてきたかも知れないなあ。その時は気づいてないからね…ほんと)
中には、本当に、これから始めることへの熱意や希望、それをどうやって進めていくか検討している…それらの全てに「喜び」溢れている人の文章もあった。
そういうのを読むと、
「この人を応援したいな」
っていう気持ちになるし、安心する。
たとえその計画に壁が出現しても、何とかなるだろうって思えるし。
そういう人と関わりたいな、って思うのは、人情ってもんじゃないだろうか。
収縮の後には、爆発が来る。
よくもわるくも。