他を見て凹んでも、「すきなことをする」効果があれば顔を上げられる
私は気が弱い人間だ。
すぐ、凹む。
ただ、それだけに、ちょっとしたキッカケでも浮上できる。
のだが。
浮上した、と思っていても、意外に奥底の方ではひっかかったままになっていて。
それを刺激する出来事に遭遇すると、いとも簡単に、それが存在を主張してくる。
ほとんどのことは、気にならないんだけど。
ザルもザル、穴あいてるんじゃないかっていうくらいで、そもそも意識に残らない。
記憶には残っている出来事でも、感情記憶はサクッと欠落していることが多い。
それだけに、奥底に引っかかっていたことが刺激を受けて主張しはじめた時は、未消化の生々しさにびっくりさせられる。
やっぱり、ナーバスになりがちなのは、手の仕事の面。
他の人からどう見えるかはともかくとして。
私自身は、自分に全く自信がないので、他人の仕事を見ては凹み、また他を見ては凹みの繰り返し。
私よりもよほどスゴイものを作っている人が、びっくりするような安い値段で売っていたりすると、怖じ気づくこと、この上ない。
自信のなさは、自分の理想とする状態がものすごく高いところにあるから、それにどうやっても及ばない…という永遠の未達成から来るものと。
すぐに、自分の中の「欠け」を発見してしまう、完全無欠願望によるものと。
それが、二重螺旋を描いて、あっちからこっちから、いろんな刺激を引っ張ってくる。
始末が悪い。
けれど。
自分はこれをやるのだ…退かないと決めた、という自覚だけは持っているので。
それらの刺激に凹むものの、どうにかして「いいや、まだまだだ」という気分を引きずり出し、動き始める…と、だんだん凹み感覚が薄れていく。
その引きずり出すまでのタイミングを、徐々にではあるけど短くできてきて。
なんとか、今日に至る。
残骸が、あちこちに引っかかったまま。
そして、その残骸が、ふとした弾みに、再び、主張を始める。
そしてまた、どうにかして、「いいや、まだまだ」まで気分を持って行き……
きっとみんなおんなじように、どうにかして、まえむいて、うごきだすようにしているんだ。
ろくろで土を成形する時は、余計なことを考えると一瞬で、カタチが崩れる。
うまく作ろうと思ってもダメ。
性急にカタチを変えようとしてもダメ。
うっかり気を抜いたら、さらにダメ。
土を無理に思い通りにしようとしても、うまくいかない。
かといって、ろくろの回転が生む力と、土の粘りけや質量に負けると、自分が押し返されたり流されたりする。
物理に逆らってもダメだし、力負けしてもダメ。
ろくろの前で座る、その姿勢や、腕の支点の置き所…全てが、影響する。
手びねりで成形するのとは、全く違った、土との対話になる。
他人がどうとか、時代がどうとか、世の中の動向がどうとか…そんなこと、一切関係ない。
土いじりは心頭滅却にはよい。雑念入ると、その途端におかしなカタチになる。筆の線も同じ。動揺とかイライラとか、如実に線に出る。
— 異界絵師 緋呂@神と龍と魂を描く人 (@HIRO_eshi) 2017年2月25日
皿や茶碗を作ることに対して別に興味はないのだけど。
ろくろで土を成形する、という流れそのものは、好き。
(もちろん、今は、自分でちゃっちゃと作れるようになれば絵付けの土台に悩む必要もないじゃん…という色気もあるので、以前とは違った姿勢で取り組めているのもある)
(3年かかる、っていう話は、承知してますよ…でも誰でもそうかどうかは、わかんないじゃん)
できることがある、っていうのは。
素晴らしい。
凹もうが、落ちようが、闇の中だろうが。
次に何をするか…ということを選べて、やっていくことができる。
それは、本当に、幸せなことだ。
そう、たぶん、これが。
「すきなことをやる」
ということの、最大の、効果。
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