旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

値付けのモトがどこにあるか…を考える頭に、私の手が突きつけた「回答」/「この貸しは高くつくぜ」という話

 

ここんとこ、ちょっと真面目に今後の活動を「シゴト」とか言わずに「商売」として考えなきゃね…という機運になっておる。

そうすると、焦点の法則よろしくで、それに関係する話題がコロコロと、転がってくる。

 

一番大きかったのは、これだ。

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この企画をめぐっては、実にいろんなことを考えた。

いろんな人が。

それについては、また改めて、もう少しじっくり、書く(たぶん)として。

 

その「考えた」中で呟いたのが、冒頭に貼ったツイート。

 

 

 

「この貸しは高くつくぜぇ」って、そりゃあ、こんなマンガ候なセリフをガチで吐く人間がいたら、逆に会ってみたい。

けれど、たけCへの返信に書いた通り、結局これと同じ意味のことを、世の中はみんな、やっているんじゃないのか?

って、思う。

 

 

買う人はお財布から金を出す。

すると、その分、その人の「現金」なり「通帳の数字」なりは、減る。

 

商品を仕入れる/開発するために「減った数字」は、「貸し」でもある。

だから、上乗せして回収する。

その上乗せ分が、利益。

 

結局、そういうことだよね?

 

たけCは、「やっぱりその価値付けの源は自信ですかねー。」と、回答をくれた。

 

けれど、今のところ、私はこの「自信が価値付けの源」説には、しっくりこない。

 

 

 

自信なんてものは、極めて主観的であやふやなものだ。

ちょっとしたことで、急にふくれあがったり、しぼんだりする。

そんなものに左右されての値付けで、いいと思えない。

 

 

ある、絵で生活している人が、時給1万円で換算している…と、答えているものを読んだ。

1時間で出来上がるものは1万円か?

だとしたら、私の30分で仕上がる龍画は5千円?

いやあ、そういう問題じゃないだろうよ。

 

時給換算は、結局、消費の考え方から出ない。

 

 

 

 

私は、神絵も龍画も、最低価格を決めている。

絶対にそれを割り込まないこと、というのを、厳命にしている。

時間がどれだけかかったかは、関係ない。

かといって、どれだけ苦心の作か…というのも関係ない。

今は、「大きさ」ベースで考えることにしている。

実際問題としては、大きいものが大変で小さいものは楽、っていうことは絶対にないけれど。

それは、「時間がかかったものは、かかってないものよりもデキが良い」ってのが全く当てはまらないのと理屈は同じだ。

 

 

「これくらいの金額なら、人が手に取りやすいのではないか」

そんな発想での値付けをしないことに決めた。

 

いや、実は年末までは、その考え方を捨てられなかったのだけど。

 

今年の自分のテーマを「唯一無二」とした時に、そういう発想は断つべきだ、と思った。

値付け以外のことにおいても、である。

 

 

私は、手が…手だけが、見えない世界と行き来する。

この手が、あちら側へ行って、そこから何かを掴んでくる。

それがなければ、絵(作品)として顕現しない。

 

それは、私個人の自信がどうとか、業界的な基準がどうとか、時間給がどうとかいう話で補えないところで。

 

私の頭がどう考えるかにすら関係なく、私の手が顕現させる。

 

結局、私は、「この貸しは高くつくぜ」と、自分の手に、常に宣言されている…という状態なのだ。

 

 

おっと。

なるほど。

そういうことか。

 

文章も手主体で書いてる時があるのだけど。

今、まさに。

 

 

そういうことか。

私自身はどうにも納得しがたい、自信も微妙…な金額設定は、手に対する貸しだからか。

それで、常に、頭が考えるよりも上の数値を、「私以外の、値付けを任命された人」が、はじき出してくるのだ。

 

 

うわあ。

 

 

怖ぇぇぇ………

 

 

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那智石硯触ってると、すごいゴキゲンなの、この手。


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