ごめんね、たぶん、ひとにはぜんぜんわからない、ながいぶんしょう
とある会話の中で、
「一番ハッタリをかまさないといけない相手は自分だからね」
なんて、発言をしたんですわ。
注意してないと、あちこち、ほころびてきてさ。
「もう全て何の意味もないんだよ世界なんて………」というモードに、ズルズルっと、滑り落ちるんだよねえ。
けっこう、若い頃からそういう処があって。
飽きもせず、この世界はどうやって出来ているんだろうとか、宇宙はどういう動力で動いてるんだろうとか。
人間はどうして、いつ、誰が、人間という名称に決めたのだろう…とか。
そりゃあもう、愚にも付かないことばかり、ひねくりまわしてる子だった。
そういうのに付き合ってくれる友達がいたから、なおのこと。
そして、その子の方が何倍も考えるし、厭世観が強かったものだから、私は自分がすごく脳天気で何も考えないで生きてるヤツだと思っていた。
(まず、ここで、間違った基準の基礎が作られた…のかも知れない)
未だかつて、私は自分が何かをする上で、一番になったことがない。
常に身近に、自分よりも数倍、優秀なスゴイ人がいた。
およそ考えられる限りの「こうだったらいいな」という方面で。
パフォーマンスが高かったり、技能が秀でていたり、頭が良かったり、知識の宝庫だったり。
他人が自分よりも優れている…とか、数倍先に進んでいる…ということをハッキリ思った最古の記憶は、幼稚園就園前のことだ。
私は、子どもの頃の記憶があまり、残っていないのだけど。
その数少ない、覚えていることの多くは、「あの子スゴイ」という記憶。
たぶん、何かそれらしいことを親に言っていたんだろう。
親には、ものすごい負けず嫌いな子だった、ということを、後になってよく言われた。
まあ…実際、そうなんだけど。
一方で。
私は今でも、自分以外の人は皆、スゴイ…と、本気で思っている。
自信があるとか、ないとか。
よく話題にするけれども。
その「自信」って、一体なんなんだろうね。
誰かと比べてどうだ…というのをやっていても、上には上がいて、キリがない。
世の中には、スゴイ人はゴマンといる。
下には下がいて、これまた、「さすがに、それと比較してもナンの自慢にもならん」という領域を見たところで、自信になんかつながらない。
むしろ、そんな領域にあるものと比較していることに気がついた時点で、より落ち込むこと間違いナシ。
絵描き道に舞い戻ってきた頃は、本当に、自信のジの字もなかった。
当時は天使ばっかり描いていた(好んでではない)けれど、そもそも「いや、だからさ、天使って何なん????」という状態でもあったし。
世の中で流行しているらしく、多くの人が支持している(ように見えた)天使についての考え方というのは、どうにも自分の感じ方とは違っていて。
でも、見えるわけでもないし、聞こえるわけでもないのに。
誰に何を証明できるわけでもないのに。
おかしいのは、自分だ…という可能性が、高いんじゃないのか?
と、かなりくどくど、考えていた。
ある時。
高名な天使ヒーリングメソッド創始者から直に学んできたというヒーラーさんから
「あなたには正しい野心がある」
「自信を持ちなさい」
と、2時間ほどの会の間に、何度も繰り返し言われた…ということが、あった。
競争や勝負といったことを嫌う世界のまっただ中にいる人から、「野心」なんて言葉が出てくるということに驚いたのだけど。
言われて、確かに、覚えがあると思った。
その頃からだと思う…モノの見方が、少しずつ変わって来たのは。
私は、あまりにも常に天ばかりを見過ぎている。
この場合の「天」は、天界とか神とかいう意味ではなく、世界の天井のこと。
上の方。
遙か、遙か、遙か、上の方。
今もそれは変わってないけれど。
天を見上げ続けても、上には進めないのだ。
そのことを、今は、知っている。
上に進むためには、足元を見なくてはならないのだ。
自分が歩いている、その、大地を。
天には地図はないのだから。
道は、地にしか、記されていないのだから。
それを実感するようになったのは。
北極星を見いだした頃から。
あてなく天を見上げていても、どこにも行けないのだけれど。
天空の一点に、いつも同じ場所にある北極星を見つけてからは、それを目印にすれば方向がわかるのだ、ということが、体感としてわかるようになった。
同じ「遙か遙か上を見る」でも、一点があるおかげで、距離を測ることができるようになった。
だから、普段は足元を見て、大地を見ていても、今自分が天のどこを向いているのかも、把握できる。
海に出ても、同じことだ。
ただ上を見ていても、それでは、何にも近づけない。
何にも近づけないから、やっぱり自分なんて…という思いから抜けることもできない。
それは、ただ、「定点」を知らないからにすぎない。
スピリチュアル好きなら、「グラウンディング」という言葉を使うことがあるんじゃないだろうか。
私は、この概念も、ずっと、ピンとこないままだった。
いろんな言葉で、どういうイメージをすればいいのかを教えてもらったけれど。
どうにもこうにも、「それが何か?」みたいな感じが抜けなかった。
けれど、ある日。
キッカケが何か思い出せないけれど。
私は、「地球の核」よりも、「己の中の核(定点)」に連結するイメージをした方が、よっぽど、しっかりした感じになるんだ、と気がついた。
自分を世界に連結する…のではない。
世界を、自分に連結するのだ。
核は自分の中にある。
地球には地球の核が、確かにあるけれど。
それに自分を連結するんじゃなく、自分の核と地球の核を、お互いに連結する。
そこから遊離するのがよくないのであって、地球の核というのは、単なる記号。
多くの人はそういうイメージの方が、しやすいのかも知れないけれど。
残念、私はそうじゃなかった。
そして、ここんとこ、更に違うイメージになってきたんだけど。
地球の核じゃなく、もっと大きなところで、もっと遙か遠いところにある「核」に連結した方が、より、安定感があるって感じるようになってきた。
宇宙、という言葉は使わない。
そうとしか言いようがないという面もあるけれど、手垢のついた概念とも、なんか違う感じがするので。
すでに名称がついている概念は、どれも、使いたくない。
龍とか神とかいったものも、その「大きな、遙か遠くにある核」に連結されている無数の存在の一部である…という認識。
サムシング・グレートとかね。
そういう、似たような概念を表す名称はあるけれども。
なんか、どれも違う。
だから今は、「あれ」とか「点」で済ましている。
自信という話から、どうにもアヤシイところに行ってしまったっすよ。
そういうつもりではなかったけど。
まあ、書き直すようなことはやめておく。
はい、戻して。
自信。
自信なんて、ないよ。
今だって、私には、自信なんて、ない。
こんなデカイ顔で大口たたいていても、自信なんかない。
あるのは、「執念」みたいなものだ。
「あの点」に近づくのだ。
北極星を道しるべに、「あの点」に向かうのだ。
今の私の後ろにずらっと続いている、代々「あの点」を目指してきた他の自分も、全部、そこに連なっている。
できるかできないか…っていう話じゃない。
そうするしか、ない。
いつまでかかるかわからないけれども。
それこそ「約束の地」というヤツだ。
そのスケールで考えたら、誰に認められるだの、誰より優れているだの…そんなことは、どれも、ゴミみたいなものだ。
ゴミは捨てる。
それだけ。
もっとも、今の私はまだまだ、口だけの存在だから。
ナンの説得力もない。
そもそも、技術もセンスも大したコトないし、絵描きとしての実力とか、アホくさくて論じる気にもなれないし。
そういうところで勝負はしない。
一つだけ、絶対曲げないでやっている、と天に向かって言えることがある。
それは、
「降りてきたナニカに、外部知識による意訳を加えることは、していない」
ってこと。
技巧が伴わなくて、思うようにカタチにできてない…というところは、精進するしかない。
けれど、「文献に載っているのと違う」などの観念によって曲げることは、しない。
それが、私の「自分だけの線引き」で、美学。
世の中で需要があるのかないのか…とか。
ホント、どうでもいいのだ。
だから、私は、アートビジネスができる人間ではない。
同時に、「プロの絵描き」とも、違う。
求道者だと思う。
そのことで食っている=仕事 or そのことで食っていない=趣味
の二択しか認めない、というのなら。
もう、趣味というカテゴリにしておいてくれて構わない。
自分自身は、仕事だと思っているけどね。
もっとも、仕事、というところに持たせている概念が、ズレてるようだけど。
そんな感じで。
最近はもう、自信の有無やら、仕事か趣味かとか、本物かエセかとか。
そういう観念が、次々、どうでもよくなっていて。
世の中には、必死になってプロになろうとしている人達がゴマンといる…という中で。
マイペースに、できる時にできるように、やれるように、やっている。
「あの点」だけを目指す…ってさ。
キツイんだよ。
なんでこんなことやっちゃってんのかなあ…って、思うこともよくある。
でも、他にやりたいことないんだよね。
誰とも比較のしようもない…ということも、たくさんあるのでね。
なんでも、自分でどうにかしていかなきゃならない。
気弱になると、ボロボロと、破綻し始める。
だから、常に、「大丈夫」と、ハッタリを自分にかましながら、やり過ごす。
自分は非常に恵まれて、幸せな人間である…ということを、ヒトカケラも疑っていないのでね。
もともと、本質的に、破滅型の要素がたんまりと、あるのだけども。
その要素に喰われそうだった時も、過去にはあったけれども。
今は逆に、それをエネルギーに変換できるようになってきた。
ほんの4年くらい前までは、自信がないということは、それはそれは重大なことだったのだけど。
今では、自信なんかあろうがなかろうが、やることは同じだ、としか思っていない。
やるか、やめるか。
二択でしかない。
自信があるからやる…ないからやめる…そんな話ではなくて。
自信がなくてもやる。
自信があるなら、もっとやる。
あるいは、やめる。
おお、そうか。
今上の段書いて、初めて腑に落ちた。
自信は、もし「ある」と断言できるようになったら、その時初めて「やめる」選択肢が生まれるんだ。
なんだ、そうか。
いやいや…それを書かせるために、こんな長ったらしい、自分にしかわからないような駄文を費やしたのか…。
まあいいや。
これにて終了。