アメノウズメという「芸能の神」の緋呂的お話し
アメノウズメノミコトという女神がおわす。
芸能の神である。
最も有名なエピソードを、はしょりまくってメモしておく。
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弟神であるスサノオノミコトの乱暴狼藉に耐えかねて、ついに岩戸を固く閉ざして引きこもってしまった、アマテラスオオミカミ。
太陽の神が姿を消してしまったため、地表は真っ暗に。
困り果てた高天原の神々は、対策会議を開く。
オモイカネノカミという智恵の神を中心にして、一計のための宴が岩戸の前で催された。
宴たけなわの中登場したアメノウズメノミコトは、岩戸の前に伏せた桶を舞台に神懸かり、肢体をあらわにして踊り狂う様子に神々が沸き立った。
その歓声を聞き、気になって様子を見ようと岩戸を少し開けたところを、アメノタヂカラオに引きずり出されてしまう。
すかさず、岩戸の口にしめ縄が張られ、アマテラスオオミカミは岩戸から外へ。
世界には光が戻った。
めでたしめでたし
---スサノオノミコトは、贖罪のために様々な貢ぎ物を過料され、髭と手足の爪を切られて高天原から追放された。その後、ヤマタノオロチ退治の英雄譚へと続く。
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と、いう感じ。
諸説入り乱れているところはあるものの、概ね、こういうエピソードだ。
天鈿女命(アメノウズメノミコト)【扉ひらく】 | Hiro-Web
この絵は、今見ても、若いなあ…と思う。
描いた当時も、「いや、こんな若い感じになるとは意外」と思ったもんだけど。
けれどまあ、この絵はこれでよいのだ。
この絵の前で泣く方が、けっこう多い…というのを今まで見てきて、そう思う。
けれど。
ウズメさまには、この後に、もう少し趣の違ったエピソードがある。
Wikipediaより該当部分抜粋
天孫降臨の際、瓊瓊杵尊(ににぎ)が天降ろうとすると、高天原から葦原中国までを照らす神がいた。
アマテラスと高木神に、「手弱女だが顔を合わせても気後れしない(面勝つ)からあなたが問いなさい」と言われたアメノウズメが名を問い質すと、その神は国津神の猿田彦と名乗り、道案内をするために迎えに来たと言った。
アメノウズメは天児屋命(あめのこやね)、太玉命(ふとだま)、玉祖命(たまのおや)、石凝姥命(いしこりどめ)と共に五伴緒の一人としてニニギに随伴して天降りした。アメノウズメはサルタヒコの名を明かしたことからその名を負って仕えることになり、猿女君の祖神となった。
一説にはサルタヒコの妻となったとされる。
これは、天照大神からの「真贋を見極め、もし眼鏡に適わぬ時は始末せよ」という密命であり、ウズメさまはくノ一のような役割だ…と、私は、とある書物で読んだ。
(その書物のタイトルなどは忘れてしまったので、これと同じ表現だったかは定かでない…)
「始末せよ」っていうあたりは諸説あるようで。
アマテラスオオミカミは「死を極端に厭う(いとう)ことから、そのような命はなかった」とも言う。
死を極端に厭う…というのは、他の神との死に関わるエピソードにおいての天照大神の対応から推測されていること…だと私は聞いている。
が、そもそもの私の「アマテラスオオミカミ」への所感は、死を厭うことの理由が、おやさしいから…とか、命を大切にされる神だから…という平和的なものではないので。
大神が「死を厭う」としても、死の影におびえる、という意味では全然、捉えていない。
従って、孫神ニニギノミコトの天孫降臨という重大な出来事に突然現れた「不審者」であるサルタヒコノミコトに対して「問いなさい」と命じられた…ということの重さというのが、私には「孫の命運を委ねる」に聞こえるのだ。
また、「問いただす」なんて固い表現されているけども。
要は、「色仕掛け」の要素が強くて、サルタヒコさまに名乗らせるために諸肌脱いでいたりする。
現代人が思う「肌を見せる」の意味とは違う部分もかなりあり、下ネタ的話ではなかったとも言われるけれども。
まあ、脱いじゃうってことは間違いない。
いずれにしても。
アメノウズメノミコトというのは、アマテラスオオミカミの「世界の支配権」に関わる場面で二度も、脱いで、なすべきことを成就した女神だ、ということ。
ウズメさまは、絶世の美女であるという説もあるが、むしろ、滑稽な風貌である、という説の方が有力なようだ。
岩戸の前での踊りも、神々を大笑いさせて沸かせた…という説が有力なようだし。
私は、どう感じるか…というと。
容貌の美醜など問題では無いのだ…と、思っている。
そんなことは、ある意味、枝葉の話。
ウズメさまが踊りで作りだしたのは、「一女神個体の芸能」ではなかったのだ。
天照大神に岩戸から出ていただかなくては、世の末だ、という緊迫状態。
そのための計略を共謀している、という緊迫状態。
その中でも、なんせ日本の神々というのはネアカすぎて、一定以上の緊張感は保っていられない方々なので。
膨張が頂点に達すると割れてしまう風船のように、はじける一歩手前まで来てたのだ。
その、「一刺し」が、ウズメさまの踊りだった。
で、思うんだけどね。
その時、果たして、ウズメさまは…
「これが世界の一大事」を左右する局面であり、その成否が自分にかかっている…なんて。
思っただろうか。
考えただろうか。
NOだと、思うんだよね。
舞台に上がるまでは、考えたかも知れない。
でも、舞台に上がったら最後、そんな思案なんて、している余裕なんか、ないよ。
どんな名手だったとしても…いや、名手だったらこそ。
そもそも女神なのに「神懸かって」なんて表現されるほどの舞踊で、神たちに幻術をかけたくらいなんだから。
思案なんてしている状態だったら、そんなことにはならない。
そう、よく言う「思考で組み立てたものに人は動かされない」という、アレ。
生きるか死ぬかの瀬戸際で生み出される芸能だったんだと思う。
神の名を用いる人へ、戒めがある。
その名を使うからには、その名の役割を違えてはいけない。
栄も滅も、全て己の身に跳ね返る。
まあ、ここまでは、比較的誰でもわかることだと、思う。
だけど。
私は少し、見方がひねくれているので。
こっちが違えずとも、向こうが違える場合もあるだろう、と考える。
そして、こちらが神に魅入られることがあるのと同じで。
神が人に魅入られることも、ある。
言いたいこと、わかる?
私の役割が、私が感じる神を三次元の平面上に留めることであるなら。
空間に、留めておけない形で、けれど確実に留める手段を用いる役割を担う人がいるのも、当然あると思う。
人の記憶、という媒体を用いるという点では、描く行為も踊る行為も、同じ。
踊りは絵よりも、作用が強力だ。
五感を全て使うことができる。
巻き込む人の数分だけ、相乗効果を生み出せる。
役割を違える…なんてことを、考える必要はない。
ただし、頭の片隅のほんのほんのはしっこに、「身に跳ね返る」だけは、留めて置いてもよいと思う。
あくまでも、意識しすぎないで、ちょこっと留めておくという程度に。
神聖なるものとは、清廉ということではない。
泥の中にも花は咲く。
日本の神は、遺体や排泄物からも何かを生み出す。
追求すること、その道筋そのものに神が宿る。
(と、求道者系の人間として、思っている)
後半は、ある一人の表現者へ向けて書いた。
話しきれなかったところを補足したつもり。
最後に、各項目のWikipediaへのリンクを貼っておきます。
興味のある方はどうぞ。
で、ここからは蛇足。
ニニギノミコトの天孫降臨の折り、天照大神が授けた「三種の神器」は、八咫鏡、八坂勾玉、草薙剣。
このうち、鏡と勾玉は天岩戸隠れの際に作られたものであり。
草薙は、知られている通り、ヤマタノオロチの尾から出て来た剣である。
ってことは…だよ。
三種の神器全てに、間接的にも直接的にも、スサノオさま絡んでるってことだ。
おっさんがイロイロやらかしてくれたから、皇室に伝わる神器が生まれた…ってことになるねえ。