理解も知識も、向かう方向は「過去」
わかる
知る
理解する
また、それらを他に言い換えた、あらゆる表現
それらの矢印は全て、過去へ向かっている。
「今」ですらなく。
過去に通ってきたことを、後から素材とする。
感情も、過去だと思う。
「今ここ」ってのが流行したけど(まだしてる?)
今この瞬間、というのを固定することはできない。
過去に起きたことへの反応として、感情が沸き起こる。
未来を想像しても沸き起こるけれど、それらも全て、過去の体験を踏まえて沸いてくるのであって、やはり矢印は過去へ向いている。
まだ見ぬ世界を想像して、期待(あるいは不安)を高める…そんな時はどうかって?
いやいや、それも、過去に起因している。
「過去に体験したことがない」が、発端なのだから。
だから、この世は全て幻想…みたいな話が生まれるんだと思う。
過去は今ではなく、すでにここには存在しない…つまり残像だから。
未来へ矢印が向いているのは、「察知」とか「予知」の類いだろう。
虫の知らせ、第六感…そんな類。
でも、そこには感情は存在しない。
理解も、知識も存在しない。
それらは全て、遅れてやってくる。
整理、整頓
これなんかは、完全に過去に対面する行為だ。
分析、検証
これも、そう。
評価、判定
これも、そう。
そう思うと…。
もうどうでもいいや、って思えている様々な事柄は、どれも「過去」へ矢印が向かっていることなのかな、と思えてきた。
では、「今」を表すのは何か…というと。
私の感覚では、それは「混沌」だ。
何にも囚われず、整理もされず、分類も判定も評価も存在しない。
濃い雲の中に立つ。
そんな感じ。
未来は、雲の粒子の一つ一つの中にある。
混沌、という言葉にネガティブなイメージを持つ人は少なくない(ように思う)
どうしてかな、と、考えてみたけれど。
もしかしたら、残像ではないものがそこにあるから…なのかも知れないな。
(って、他の人がどう感じるかなんて、私にはわからないけどね)