「何かを作る」は、モノを作るというだけに非ず
自分案内(セルフマガジン)と新名刺。
これ作りながら、なんかいろいろブチ抜いた感を実感しはじめて。
改めて、創作活動のこととか、今まで関わってきた人達のこととか、思い返すことも増えました。
当時はよくわからなかったことも、今の位置から思い返すと、バカバカしいほど単純なことだったり。
進行形のことも、自分の中でのカテゴリ分けが明快になったり。
モノゴトをフクザツにしているのは、自分の思い込みですね。
構造は、どれも実に、シンプル。
ことに、今回ものすごくはっきりしてきたのは、「作る」とは違うところです。
感情との、つきあい方…というか。
軸足が感情にある人との、つきあい方。
かな。
感情とは、豊かな人生を送るために必要な彩り。
でも、それは、モノゴトを無駄にややこしくするものでもある。
もともと、感情ってものには処理も対処も苦手だったけど。
それって、人間としてどうなの?
なんて思ってた時期が長かったなーと。
その次期は無駄ではなかったけど、そこは考えるところでもなかったなー。
感情でズブズブになってしまう人とのつきあい方。
私自身が前に進む、ということを重視するなら、そこは、俯瞰して見てるに限る。
得意じゃないし、よく理解もできない領域の話だからね。
今まで、どうにか身近に考えてみたい、と思ってきたから、必要以上に踏み込んでみたり、してきたけど。
それをやっても、解決しない。
少なくとも私には、そこを解決する能力は欠けている。
いろんな意味で。
それが、作りながら、作るという世界に没入した位置から外界を見ていて、わかったこと。
何か大きなモノを作る。
その工程は、実際に作ったモノという存在を超えて、その時期に必要な、制作とは一見関係ないようなところにも、しかるべき変容をもたらすものです。
ただ、それは結果論であり。
やり切った先で、思うことで。
何かを、やり切る。
そのステップに、まず、怯んでしまったのでは、話にならない。
出来上がったモノの評価など、人は勝手にどうとでも言う。
仮に評価がマイナスでも、通った道のりで掴んだ経験は、誰のものでもない。
だから、まずは小さいことから、今までと違うことをやってみようじゃないですか。