時には書を捨て町へ出よう 自分のフィルタを壊すために
何かを学ぶ時には、
- 学校や教室に行く
- すでに習得している人から指導を受ける
- 直接の指導は受けずとも目と体感でもらい受ける
- 本などで独学する
などの手段がある。
一つのことにおいても、1~4を全て併用する場合もある(というか、そういう人もいる)。
逆に、特に古来の師弟関係のような密接な関わりの下での指導のように、3を主体に2があり、4で補助…のような、みっちり徹底的に叩き込まれるような経験は、この現代には少ないのではなかろうか。
(おそらく、そういう状況が残っている世界は、あまり一般的に誰でも気軽にホイホイ学べるような領域ではないので)
1~3をほとんど経験せず、ほぼ4のみで習得することが主体になっている人も、たまにいて。
そういう人に今まで何名か会ってきた。
それらの人達は、二派に分かれる。
- 他の方法で習得してきた人達を軽く凌駕する、独自の境地へ到達する
- 伸び悩む時期を乗り越えられずに、諦める
2の人達のことは、「もったいないね」くらいにしか思わない。
残念でしたね、っていうだけだ。
ここでは問題にしない。
1の人達。
彼らがどうやって、そこまで行ったか。
もちろん、自分の技量にあくまでも満足せずに追求したから…なんだけど。
それ以外に、「適切な時期に、適切な意見を言う人と会ったかどうか」ってのが、すごく大きいと思っている。
その相手は、別に師匠になるというのじゃなく。
一回しか会ったことない人でもいい。
本がその出会い…というケースは案外多いと思うけれども。
その場合は、いささか、注意が必要なこともある。
なぜなら、「本から学ぶ」というのは、あくまでも「自分のフィルタの下に解釈され、それを軌道修正する人はいない」からだ。
自分の読み方しか自分にはできないからには。
解釈には、一定のパターンがある。
それ以外の解釈をするのは、はっきり言うと無理だ。
「そこにパターンがある」ことに気づかせる第三者がいなければ、「知る」まではできるかも知れないが、打破は難しい。
できるとしても、時間ロスが大きすぎる。
もとから習得と研鑽に熱心であればあるほど、自らの力で作り上げてきたものには密かに自信があるし。
その砦の外に、もっと優れた道筋へ通じる解釈ルートがある可能性はわかっていても、どうやったらそれが見えるのか、というところで躓く。
独学のよいところは、既存の妙な「こうでなくてはならない」枠や作法に毒されないことだ。
しかし、その中でしか生きていないと、外の世界のことはわかりにくくなる。
培ってきたものに、第三者フィルタを通すと、一時総崩れになる時期がある。
けれど、自分が本質的に培ってきたものは、誰の手でも崩されることはない。
その構造が崩れているだけで、構造は、作り直せばよいだけの話。
独学派は、それは得意な仕事であるはずだ。
もともと、何もないところから自ら積み上げてきたのだから。
私も、学校には一応通ったものの、ほとんど独学みたいなものだ。
それでも、学校に行ったことで得た知識や技法は当然あって。
ある時、学校でやったことなんて一つも身になってないな…なんて思っていたのに、無意識的にそれを使ってることに気がつく。
ベースにあれがあったから、この「新しく手を出したこと」にすぐに馴染めたのだな…と気がつく、とかね。
窮屈で退屈にしか見えなかった「既存の枠」が、そういう時は別の意味を持ってくる。
そして、「一カ所で多くの人数が学ぶ」経験をしたことで「今、独学の領域で見えてくること」というのも、本当にたくさんあって。
それは、一番上の1~4全部の行程をそこそこ通ってきて、比重が大きかったのが4だった…という私が、今、他人に会って話をする、っていうことがいかに重要かを実感している原因でもある。
書を捨て町へ出よう…と。
書には書にしかない良いところがあり、町には町にしかない良いところがある。
両取りと、いこうじゃないの♪
引きこもりたくなれば籠もればいいし。
出たくなれば出ればいい。
どっちかしかダメ、ってことはない。
どっちかしかダメ、と思い込むことが、一番害。