人と何かをする、その場をまとめる…ということについて考えたの巻
ピンの活動っていうのをずっとやっていると、誰かと共同で何かをやる、という経験値は増えない。
私は、それでなくても、なかなか人が何望んでいるのか…とか、どういう言葉をかけたら相手が喜ぶのか…とかいうのが、わからない。
人と何かをする、っていうことが少なくなると、それがさらに、わからなくなる。
共同の何かを運営する、ということは、私には、すごく「未知との遭遇」となる確率が高いのだ。
その昔。
創作小説のサークルを運営してたことがある。
懐かしすぎるくらい懐かしい、昔の話だ。
運営することになったのは、当時、とにかく必死になって書いてた作品を連載しているサークルの代表さんが、活動が難しくなって、下りることになって。
他に、誰も引き継ぐ人がいない/しかし誰かが引き継げば、そのメンバーの多くは残るという状況。
そのまま終わらせれば、途中まで書いてるモノの行き場がなくなる。
それは困る。
という、至ってシンプルに身勝手な動機で、「じゃあやります」ということになった。
その作品を書き終わるまでには十年が必要になり。
結局、私は数年、代表者であり続けた。
しかし、運営はヘタくそだったと自分でも思う。
なんせ、動機が動機だし。
そして、その動機が真実だったと物語るように、自分のその一作にエンドマークを打った時から、からっきし、モチベーションが保てなくなった。
私の前から参加してたメンバーは、もうその頃にはほとんどいなくなっていたけれども。
新しい人にも、その下落っぷりが見え見えになってた。
もちろん、ほどなくして、解散。
メンバーの中には、別のサークルを運営している人がいて、まだヤル気のあった人達の多くは、そちらに移っていったと記憶している。
ありがとう。
そんな具合で、私は自分のやりたいことが満足してしまうと、維持する気力すら無くすのだ。
その時に始まったことじゃない。
他の人がやりたいことをやれるための場を、自分が盛り上げていく…と。
そういう発想で、何かに力を入れる、っていうことができる人がいる。
本当に、驚くべきコトだ。
どうしてそんなことができてしまうのか、本気で不思議だけど。
でも、そういう人たちが、現実に、存在する。
人には向き不向きがあるし、適性というのもあるし。
能力の範囲は限られている。
自分にはないものを持っている人達がいるから、世の中は成り立つ。
私は、こんな風に、自分の興味が赴く場と、赴いている限りでないと、一切合切何もできない人間だ。
多くの人を慮る、ということは、私には皆無なベクトルだと、よくよく、認識した上で…
人と一緒に何かをやる、という状況に、自分の役どころを見つけなきゃならないとなったら。
何が、できるんだろうな~。
つか、「オマエはそんなこと考えなくてもよい!」って言ってもらえるくらい、突き抜けていられればいいのかもね。
ここんとこ、複数の、関連のない場で、「人をまとめる」という姿を見る機会があって。
そんなことを考えてみた。