絵を説明しない/したくない/できない理由…その後に思うこと
この三週間くらい、ずーっともやもやしつつ自分の中でつつき回してきたことが、ようやく、少し落ち着いて言語に変換できるようになってきた。
これは自分のため100%の記事だ。
他の人のため、ということがあるとしたら、片手に余るほどの濃い関係者くらいしかない。
長いのを読んだけど意味がわからん…などの文句は一切受け付けないので、そういう予感のする人は速やかに、他の方が書かれたもっと有益な記事へどうぞ。
こちらの記事に、いくつかのメッセージやコメントをいただいた。
それらを拝見し、返信する過程で、自分の反応を見ていた。
核になる部分に言及している記事への、人からの反応だ。
当然のことながら、それらへの自分の反応も、かなり切実な感覚を伴って現れる。
ここからは、「その意見を下さった方がどうか」とか「私がその方をどう思うか」ということは完全に度外視で、「読んだ/聞いた時の自分自身の内側に沸いた感覚」にフォーカスを絞って書く。
相手の方自身に対しての感情などはここには含まれない。
1.唯一の回答がどこかにある、という幻想
知ったこと:見方を指定してもらいたい、という感覚について
ぶっちゃけると、びっくりした。
見る側としては、作り手の意図に沿っているのかどうか…など、「見方はこう」と提示してもらえた方が安心する、という意見。
自分がそんなことを感じたことがないので、言われて「そんな風に思う人もいるのか」と、素直に驚いた。
そうした感覚を持つ人が多数派かどうか、ということはどうでもよく、一定数存在するということがわかったのは、大きな収穫だった。
要するに「制作者としては、これはこういう意図の元で、こういう風に見られることを想定した」というガイドラインがあると安心する、ということらしい。
知らない土地に行く時に地図が欲しい、と思うのと同じような感覚ではないかなと、今回私は解釈した。
地図が欲しい、という感覚なら、わかるので、そう置き換えてみた…ということで、その方がそう表現されたわけではない。
ここで、問題。
そもそも、「地図」など存在しないものなので。
地図を渡しようがないんだよ。
だから、その代わりに、描いた対象の神なりのことを多少は語れるようにするか…と。
これについては、その程度しか私には用意できない。
「今日の私が描いた○○神は、こういう風」ということであって、翌日描いてみたら全然違った…なんてことは、ザラに起きる。
その違いを、説明もできない。
「だって、こうだからこうだもん」としか言いようがない。
第二。
「そもそも、安心させるためのものではない」ということ。
もちろん、不安がらせるためのものでもない。
だが、「不安になる」ことが、純粋にその絵を見てのことであれば、むしろ私的にはある種の歓迎ものである。
なぜなら、「あなたの情動を起こした」という結果だから。
けれども、その不安が「この絵の正しい見方は何なのだろう」といった筋のものであるのなら、そんなの私がフォローすることではない…という気もする。
私には「正しい見方」などは存在しないから。
導き出されたこと:常に正しい回答がある、という幻想がイヤ
「正しい見方」などは存在しない。
だが、比較的多くの人が、そういうものがどこかに存在しているものだという前提でモノゴトを見ている。
それがイヤ。
回答の存在しない事象など、この世には腐るほどある。
正解など、人それぞれであり、一人の人間の中にですら何万通りもの正解が存在する。
そういうものだと私は思っている。
唯一の正解、なんていうシロモノは、それこそ「地球には重力があり、水は高い方から低い方へ流れる」みたいなレベルの話でしかないと、思っているから。
表現している人間には、確かに、伝えたいことや語りたいことがある。
だから、それを表現している。
けれど、それは「正解」という意味ではない。
正解は、あくまでも、見る人の中にある。
だから、今回いただいた反応の中で私が最も嫌っているのが「描き手には常に<唯一の正解>がわかっている」と決めつけられることなんだ、と判明したのが、最大の収穫。
私は、その、「描き手には正解がわかっている」という決めつけを、枠にはめられる感じとして捉えているということも、判明。
今後の方針:あなたが決めてくれればいい、ということを、もっと伝える努力をする
まあ、それしかないかなと。
結局「モノゴトには常に、どこかに、正解が存在し、答え合わせをしてもらえる」という前提が嫌いなのだ。
だから、それを覆すように促す努力をしてもいいと思った。
すぐに、お手軽に、どこかにある正解をもらいたがる人々。
それを押しつけられるのがイヤなら、「正解なんざねえよ」ってことを伝え続けるしかない。
2.そんな話はしてないよ、という拒否感
強烈に沸いた感情:他人のお膳立ての上からモノ言うな
誰かが構築したメソッドの中に生きていて、その中から外へ向かって投げかけられたことに怒りを感じた。
優劣の問題ではない。
立場の違い、という話。
知った口きくな、的な怒りだ。
怒りというのは二次感情だ…なんて、知った風なことを言う人も多いわけだが。
なんでもかんでも、そういう簡単な枠組みの中に押し込むことも、私は嫌いだ。
心理学をやってる、という看板を出している人達の多くは、実際には心理学などやっていない。
「心理学風味」の、わかりやすいカテゴライズが得意なだけだ。
ウソとも言えない、いくばくかの真実が含まれているけれども、モノゴトの一面を拡大して全体を縛ろうとするようなことだ。
「買った枠」の中で、その契約に含まれている決め事の中で、その縛りに保護されて、そこから出ないでいられる。
私は、それ自体を否定はしない。
それにはそれの良さがあり、楽しみ方があり、価値がある。
だから、それでいられるならば、別に「それでどうぞ」と思うだけだ。
だが、その囲いの中にいたらわからないことを、安易にわかるような顔はされたくないなと思う。
それは、曖昧模糊としたものを手探りで引っ張ってきて、どうにかしてカタチにしようとして格闘してきた者としての矜持の問題だ。
この件については、自分がそこに、思ってきた以上に「誇れるもの」があったとわかった、というのが収穫。
本件については、特に今後の方針などはない。
わかった、というだけでよい。
見えるようになったものは、無意識に飛び出すこともなくなる。
3.「わかりません」と「説明できない」は同じでも違う
得たもの:新しい見方
『これはなんですか?』と問われ、『わかりません』というのと
『これは説明できない』と言われるのでは、同じでも違う
非常に端的で、よい示唆をいただいた。
この、「同じでも違う」ということが、本当に、大事。
思えば、そういう微細なところで、怒りに着火するか、腑に落ちていくかが分かれる。
そう考えれば、やはり、「どういう言葉を選んで相手に投げかけるか」というのが、本当に重要なことなんだ…と改めてわかる。
得たもの2:相手に考えてもらうようにしむける努力
一番最初に書いたことにも通じる話だけれど。
自分には非常に「当たり前」で「前提」で「疑問の余地すらない」ことであっても、そうではない人もいる。
というか、たぶんだけど、私の方が絶対的にレアケースな気がする。
だとしたら、私は、自分はこういう風に考えていると伝える、というのは、絵とセットでするべきことなのかも知れない。
絵を説明するのではなく。
自分は、こういう風にモノゴトを見ているのだ、という前提を、伝える努力。
「作者が言葉が喋れなかったと仮定して、あなたがこの絵を解説してみてください」と、投げかけてみてはどうか…という意見もいただいた。
これも、「正解なんてねえよ、自分で考えろよ」と言ってしまう代わりに、問いを投げかける…という働きを続けることで、「すぐ回答がもらえるもんだと思ってる」現象に微細でも変化が起こせる可能性がある。
小石を投げ続ける…ということ。
微弱でも、水面に波紋を起こし続ける…ということ。
そういうことを続けて行く努力をする、というのが、私の場合の「目線を合わせる」こと(の一つ)なのかも知れない。
絵を説明する、ということではなくて。
前提を説明する。
そして、正解は見る側の中にある、ということを説明する。
今の結論:言い捨てる以外にできることはある
絵の中に描かれている意匠の意味がどうのこうの…なんて。
実際、どうでもいいことなのだ。
それが大事だと言う人もいるけれど、私はそうは思わない。
それは、主義の違いってことで、いいじゃないか…と、思う。
陰謀論とか、一部の特別に選ばれた人にしかわからない世界の秘密…みたいなことに興味がある人にとっては、神が示した文様だの隠された暗号だの…といったことが関心のマトかも知れないが。
私は、そういうの興味ない。
そんなことよりも、人間が人間として、どういう風に何を考えて、どう生きるのか…ってことの方が、よっぽど重要だ。
だから、「自分で考える」ことを避けようとする人たちに、「いや、それも面白いよ」ということを伝えたいと思う。
思えば、5年近く書いてきたブログも、根っこにあるのはそんなところだった気がする。
高名な誰かが右だと言えば「右なんだって!」と追従し、また別の誰かが「上だ」と言えば、またそこに追従する…という感じに見えていた、ふわふわウキウキした人達に、たまにはその裏側も考えてみろよ、って言ってみた。
そんなことを続けてきてた。
買ってきた枠をいくつも使って、それをさらに人に売る…というシステムを一歩も出ようとしない人達、というのも、たくさん見てきた。
楽しむことはステキなことだし、何もしないよりはずっといい。
けれど、その中にいるだけで全部わかったような気になってるとか、その中でしか通用しないお約束を外側にも押しつける…というケースをたくさん見て、もったいないなとか、メンドクサイな…などとも思ってきた。
私だって、全然未熟で、ダメダメで、動きは遅いしきっちりもできない。
肝心の、絵そのものも、全くもって褒められたもんじゃないし。
だけど、その生きる場所が泥溜めでしかなくとも、野生の誇りは、自分の中にちゃんと作ってきたんだな、ということも、よくわかった。
ペットも、生きるために野生化することはある。
私は、そういう人がもし現れたら、野生化の手伝いをしたいと思う。
人の作った枠から出て、自分の枠を作る。
さらには、それも破って、己を大きくしていく。
そのためには。
小さな疑問や、些細な息苦しさや、煩わしさや、窮屈さ。
そういうものを感じている人に、それをもっとよく感じてもらう必要がある。
その野生化の芽を、本人が自覚しないことには、何も始まらない。
そして、そういう芽は、カンタンに潰される。
ある程度育つまでは、側杖が必要。
私の「楽しいことしよう」というのは、「野生化しよう」っていうことなのかも知れない。
そんなことが、薄ぼんやりとでも見えて来たのは、今回本当に良かったと思う。