好きなこと、というのは、強制されないことを言う
「好きなこと」って、一時流行した(今もしてる?)「わくわくすること」と、結局は同義語だと思う。
好きなことしよう道、って勝手に言ってる私だけど。
ぶっちゃけた話、「わくわく」という単語にはすっごい違和感があって、なかなかそれを呑み込めなかった。
今も、拒否感みたいなものこそ減ってきてるけれど、自分にとってフィットする語感ではない。
「好きなこと」という表現に拒否感が出ないのは、その言葉の構成のせいだと思う。
わくわく、というのは、「感情だけで成り立ってる」言葉だ。
ある一定のテンションなり、高揚感なりを持った状態を表現する言葉で、自分の感覚が「それが表現していると思われるエリアの中」に一致しない場合は、違和感しかない。
つまり、私自身が想定する「わくわく」な状態というのが、自分の実感に合わない。
自分にとって、その状態は「点」としてしか存在しない。
ある瞬間、基準線を超えて感じた時。
その「点」でしか存在しない「わくわく」を、「状態」として継続してなくてはいけない「わくわくすることをやる」という範囲に拡げる、ということが、無理だった。
そんなテンションで日常を送ることは、できない。
私にとっては、わくわくすることをやる、というのは、無理ゲーだ。
そこいくと、「好きなこと」というのは、感情でも状態でもない。
「そのこと」を自分が好きかどうか、という話。
やってて面白くないこと、イヤなことが多くを占めているような何かを「仕事」にして、日々鬱々とするのであれば、「あ、これ好き」と思えることを仕事にした方が、人生は楽しい。
仕事にしなくても、そういうことをやっている時が多ければ、それだけ楽しいだろう。
時間比率で少なくても、感じとる時の頂点が高いなら、その頻度を上げる方が、人生は楽しいだろう。
そういうことだ。
「しなければならない」となると、どんなことであっても、それは苦しいことになる。
楽しかったはずのことでも。
見つけなければならない、なんて、誰も言ってない。
その方がいいと思うよ、と誘っているに過ぎない。
そもそも、強制されてやる時点で、「好きなこと」ではないよね。
どうして、「好きなことをしなければならない」とか「好きなことを仕事にするべきだ」とかいう、強制の方向に勝手に変換してしまうのだろうか。
それだけ、真面目なんだろうな、と思うけれど。
真面目なのはいいことだ。
でも、クソ真面目なのは、よくない。
というか、クソ真面目なのは、自分が苦しむだけだよ。
経験者は語るよ。
クソ真面目なのは、百害あって一利なし。
これ、ホント。
自分にとって百害あって一利なしなら、他人にとっても同じ。
だって、百害によって苦しい苦しい、もうイヤだ~!というストレスは、いつの日か、身近な弱いところへ向かって放出される時が来る。
子どもに当たる。
夫に、妻に当たる。
同居の弱ってきた親に当たる。
部下かも知れないし。
立場が自分より弱いと思われるママ友が的になるかも知れない。
ネットで見つけた何かへの一斉叩きに荷担するかも知れない。
あるいは、己自身の弱いところに当たって、その結果として様々な病気になるかも。
そんなことで貴重な人生の資源を浪費するなら、好きなことやった方がいい。
その程度の話だ。
仕事にする、ということが、そもそも不可能なジャンルのことだって世の中にはある。
そういうことが「一番好き」なら、それを仕事にするというのは困難だろう。
その困難を突破してでも仕事にする方法を探す…そのことそのものが「好き」なら、それは楽しい苦難の道になるだろうから、やればいい。
でも、仕事にするまで乗り越えていくに伴う苦難の方が、仕事にせず適度に楽しむ方が楽しめていい、と思うなら、そんな困難をあえてやる必要もない。
そこは、個人が「自分の生き方の、どんなことに重きを置くか」という問題であって、他人がどうこう言うべきところじゃない。
苦難を乗り越えた末に手に入れる何か…というのは、それ以前の時に「想像していた状態」とは、おそらく、雲泥の差がある。
だけど。
それをわかっててなお、想像してるだけで楽しめるからそれでよい…というのなら。
それで、いいと思う。
ただし、その場所から先へ行こうとする人の足を引っ張るのは、御法度だからね。
笑って過ごすところに、福来たる。
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