辞世の句からセルフィーへ
上の記事を読んだ。
タイムラインに、下の記事が流れてきて、それを読んでたら、上のがリンクで出てきた…という流れ。
日本人もタージマハールで自撮り中に事故で亡くなった人がいるとな。
冒頭の「九死に一生の場面で……」の記事から引用
(太字部分も原文ママ)
サバイバル・セルフィーは、絶体絶命の場面を生き延びたという証にもなります。トラウマをおったとしても、そのサバイバル・セルフィーが、あなたが生き延びた、今も生きているという証拠にもなるのです。そして、Whitbourne教授は言います。「時がたてばこう思うはず。ソーシャルネットワークのいいネタになったな、と」Fox准教授も続けます。結局は、「写真がなければ、それは起きなかったも一緒」なのだと。
セルフィー、なんとも業が深いものでしょう。
昔は、辞世の句をしたためたのが、今は自撮り。
メモ用紙の切れ端に走り書きした、家族への手紙…それも、今は動画でできる。
けれど、その方がより、状況は伝わる。
誰もがカンタンに自分と周囲を同時に写し込めるツールを手にしているご時世だ。
状況を伝える術を失った場合でも、機器が生きていれば…またはデータがサルベージできる状態ならば、そこから多くのことがわかる。
これで最期かも、というときに撮る自撮りは、必ずしも自分のためだけではない。
むしろ、必要な人に渡ってくれることを願って撮る、大事な人に向けたものになる。
九死に一生を得て、その後自ら振り返ることができるようになったとしても。
その時の自分は、最期かも知れない自撮りを撮った時の自分とは、もはや別人だ。
…そんなことを思いながら書いてたら、別のことに連想が飛んだよ今。
ああ、でも今時間切れ。
帰ってきて覚えてたら続き書こうっと。