一人が一つずつ持ち歩ける灯火
あれこれと、多方面をやってみる。
いっつもそんな感じでやってきた。
過去をずーーーっとたどると、とあることには、気がつく。
切り絵→ランプシェードを作った
ビーズ→シェードを作り始めて飽きた
陶器→シェードを作ろうと計画中(その前にろくろが上手くならないと思う形が難しいってのが判明…というのが現在地)
木材→本職に発注して形を作った
焼き絵→点灯した時と消灯した時で顔が変わるシェードを作ろうと企画した→これが「ひょうたん」に連結
墨絵→背後から照明を当てた演出をしたいと思った→木工所に発注して作ってみた「行灯」で、なんとなく形見えて来た
現在地/ひょうたんランプ
どの素材でも、最終的に「これで照明を作ったらきっとキレイだ」に、行き着いている。
上の投稿に、友人がこんなコメントをつけてくれた。
そう、その通り。
全部、光に行き着いた。
ある、光の絵/開運画の先輩が、この絵を見て
「あなたは、描かないことで光を描く人なんだね」
…と、おっしゃった。
この絵は、板に焼き付けてあるので、この絵の「最も明るいところ」とは、板の素の色がそのまま出ているところ。
降りてくる光は、一切手を入れてない、素の板の色。
焼き残すことで、光を描く…確かに、「描かないことで描く」だ。
結局、絵でも、光を描いてる。
神絵だから光でしょ、っていうのはね。
違うんだよ~。
闇の神もいるからね。
悪い神、という意味ではないからね。
っていうか、日本の神様は、ほぼ、すべからく…と言ってもいいほどに、闇の属性も備えておられますがね。
灯台のような大きな燈火なら、誰もが目にとめる。
そこにあるだけで、役目を果たす。
こんな小さな私の灯火は、別に、役には立たない。
炎の、「ほの明るい」光に照らされるからこそ素晴らしい…という仏像があるように。
灯火にも、適材適所がある。
小さな灯火は、一人が一つずつ、持ち歩ける。
そうなってこそ、この灯火は役割を果たす……そんな気がしてきた、今日この頃です。
点灯して、中間チェック中のひょうたんランプ。
この写真Facebookに載せたら、「エレガント」とか「お洒落」とかいう、かつてないような希な感想コメントいただいた!
びっくりする!!
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