光、光、光、光………と、光だけ連呼しても人は救われない
最近なかなか新しい絵ができてこないので、そろそろ、私が何者かがわからなくなってきそうな感じなのですが。
私は、神仏龍絵師です。
肩書きとしては「異界絵師」と名乗ってます。
なぜなら。
「天界絵師」でも「神界絵師」でもないからです。
見えない世界ってのは、天界神界だけで成り立ってるんじゃない。
キレイなモノだけ見てりゃいい、ってもんじゃないです。
世の中には、キレイなものだけにフォーカスし、それだけを表現していくことを「波動が高いものを描くこと」だと信じている方もいらっしゃいます。
別に、それをどうこうは言いません。
それも、その方の道ですからね。
(そもそも、私は「波動が高い」とかいう概念自体に懐疑的だったりする)
けれどもさ。
光、光と、そればかりを連呼し、そこだけを見ていたところで。
人は、救われないと思う。
もちろん、これは私の信じることです。
自分の中に「救いたい」がないから、そういうコトを平気で思える…のかも知れない。
神仏天使と、人との縁をつなぐ。
その橋渡しになる「モノ」を作っている人は、たぶん、一般に知られているよりもたくさん、存在していると思います。
一般に知られている「モノ」とはちょっと違うカタチでそれを現している人も、たくさん存在している(と思う)
中には「自分だけが唯一、本当に神からその役を仰せつかった」と言ってはばからない人もいます。
その人が、そう信じたいのはわかる。
そして、その人自身と、その人だけを信じる周囲にいる人達には、確かに、それが真実となっていくのでしょうね。
他を受け入れない以上は、そうなるしかないわけですから。
どうしても、その人に大金を支払って、神仏との「正式な神縁」なるものを結んでもらわなければ、これから始まる変動期を生き延びられない。
そんな風に、信じ込んでしまっている人達…または、信じた方がいいと信じてしまっている人達。
信じ込ませている側の人達。
それは一見、うまく噛み合っているように見えるのだけども…。
信じ込ませている側自体が、何かによって信じ込まされているように、見える。
私は、そうした方達を「闇(あるいは魔)に騙されている(囚われている)」とは、思いません。
まして「早く間違いに気がついて!」みたいなことも、思いません。
間違ってる、とも、思いません。
選んだ道が違う、というだけだから。
違う道を行く私からすると、「なんだかなあ」な感じ、っていうだけ。
でも、それについて無言でいることは、私の理念に反する。
そういう場合がある。
だから「私は、そういうのは好きじゃない」と、これだけは確実であることを、言います。
私は、光光光光…と言って、闇を敵視あるいは蔑視するのは、好きじゃありません。
今、悪魔などと言われている存在も、もともとは土地の神であったり、精霊であったりしたのです。
一神教においては許容できない存在を、悪魔の地位に追いやった。
それは、「役割」を負担させたのだ、っていうことであり。
そうした存在が「人間の敵」であるのかどうか…などは、実際にはわからない。
人間にそう信じさせることには、ほとんど成功しているに近いような状態のようですけどね。
人間にとって脅威となる、恐ろしい存在というのは、いると思う。
人間よりも強い力を持ち、
人間よりも自由に存在の形態を変えることができ、
人間よりも柔軟な生命のカタチを保ち、
人間よりも広範囲を知り理解することができ、
人間よりも細かな粒子構造を備えた
存在。
そういう存在がひとたび「我々は人間の脅威である」と決断した時は。
今人間があがめ崇拝している「光」を象徴している存在であろうが、闇であろうが、脅威であることは等しく違いない。
意味が、わかりますか?
光だけ仰ぎみていれば安泰である…なんて。
そんな保証は、一切どこにも、ないのです。
光る神が「人間を消す」と決め消そうとするのを、闇の魔が「いや、もうちょっと待て」と引き留める。
もしそういうことがあるとしたら、「光崇拝」な人達は、どちらを有り難がるのだろうか。
そんな風に、思います。
神の何が恐ろしいって。
どんなに可愛がっていても、「もう終わり」と決めたのなら、躊躇ないであろうと、わかることです。
天使は、その神の意志を具現化するのが役目なので、そうなれば人の敵(便宜上、この表現を使います)となる。
光か闇か、どっちかをただただ仰ぎみていれば、それで良い。
そんな単純なことならばよいんですけどね。
恐怖の終末論…そんなの、私は全然、信じないし支持もしませんよ。
それは、光崇拝をただひっくりかえしているだけのことだから。
神を、恐怖の対象として見ることは、違うと思ってますしね。
○○をしなければよい。
××をすればよい。
そういう、一方的で画一的な約束ゴトだけではない。
神を数える時の単位をご存じですか?
神は「一柱、二柱…」と、数えます。
柱 です。
自分自身の中に存在する「柱」に問うことです。
人に指示されなくても、人としてどうかという基準は、人の中にちゃんと、ある。
何かを、誰かを、崇め奉る前に。
自分の柱に、問うてみましょう。
こういう記事の時に何の画像を貼ろうか…と、いつも考えますが。
人の姿を描いたものよりも、もっと根源的なものが必要なんですよねえ。
上の絵は、2011年8月の絵。
対になった二枚で、題名は【二律背反】
この絵の左側…光の側を、とある神ゴトに従事される方に
「これは自分が見た<神様の光>そのものだ」
と言われたことがある。
その方は、色もカタチも「まさにそのもの」で、また見られるとは思わなかったと大層気に入ってくださった。
譲ってほしいとおっしゃり、そのすぐ後に「いや、この絵はあんたの神さんが描かせた絵やから、わしがもらってしまってはあかんな」と、訂正された。
この二つは「別々のモノ」ではありません。
二枚に分かれて描いてはいるものの、別々の存在ではないです。
表裏、というモノものでもない。
でも、今は、こんな絵しかないのだなあ。
何かを崇拝させようとする傾向が気に入らないな、って感じる理由は、ただ一つ。
「人がもともと内包している、自分自身の神性(柱)から本人の意識を切り離し、引き離す教えだから」
これだけです。
天の神や仏に手を合わせる…ということと、崇め奉る…ということ。
この二つは、全く違うことなんです。
【緋呂 公式サイト/Shop/SNSリンク集】
★外部サイトからも読者登録できます!→