旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

光、光、光、光………と、光だけ連呼しても人は救われない

最近なかなか新しい絵ができてこないので、そろそろ、私が何者かがわからなくなってきそうな感じなのですが。

私は、神仏龍絵師です。

肩書きとしては「異界絵師」と名乗ってます。

なぜなら。

「天界絵師」でも「神界絵師」でもないからです。

見えない世界ってのは、天界神界だけで成り立ってるんじゃない。

キレイなモノだけ見てりゃいい、ってもんじゃないです。

 

世の中には、キレイなものだけにフォーカスし、それだけを表現していくことを「波動が高いものを描くこと」だと信じている方もいらっしゃいます。

別に、それをどうこうは言いません。

それも、その方の道ですからね。

(そもそも、私は「波動が高い」とかいう概念自体に懐疑的だったりする)

 

けれどもさ。

光、光と、そればかりを連呼し、そこだけを見ていたところで。

人は、救われないと思う。

 

もちろん、これは私の信じることです。 

自分の中に「救いたい」がないから、そういうコトを平気で思える…のかも知れない。

 

 

神仏天使と、人との縁をつなぐ。

その橋渡しになる「モノ」を作っている人は、たぶん、一般に知られているよりもたくさん、存在していると思います。

一般に知られている「モノ」とはちょっと違うカタチでそれを現している人も、たくさん存在している(と思う)

 

中には「自分だけが唯一、本当に神からその役を仰せつかった」と言ってはばからない人もいます。

 

その人が、そう信じたいのはわかる。

そして、その人自身と、その人だけを信じる周囲にいる人達には、確かに、それが真実となっていくのでしょうね。

他を受け入れない以上は、そうなるしかないわけですから。

 

 

どうしても、その人に大金を支払って、神仏との「正式な神縁」なるものを結んでもらわなければ、これから始まる変動期を生き延びられない。

 

そんな風に、信じ込んでしまっている人達…または、信じた方がいいと信じてしまっている人達。

信じ込ませている側の人達。

それは一見、うまく噛み合っているように見えるのだけども…。

信じ込ませている側自体が、何かによって信じ込まされているように、見える。

 

私は、そうした方達を「闇(あるいは魔)に騙されている(囚われている)」とは、思いません。

まして「早く間違いに気がついて!」みたいなことも、思いません。

間違ってる、とも、思いません。

 

選んだ道が違う、というだけだから。

違う道を行く私からすると、「なんだかなあ」な感じ、っていうだけ。

でも、それについて無言でいることは、私の理念に反する。

そういう場合がある。 

 

だから「私は、そういうのは好きじゃない」と、これだけは確実であることを、言います。

 

私は、光光光光…と言って、闇を敵視あるいは蔑視するのは、好きじゃありません。

 

 

 

今、悪魔などと言われている存在も、もともとは土地の神であったり、精霊であったりしたのです。

一神教においては許容できない存在を、悪魔の地位に追いやった。

それは、「役割」を負担させたのだ、っていうことであり。

そうした存在が「人間の敵」であるのかどうか…などは、実際にはわからない。

人間にそう信じさせることには、ほとんど成功しているに近いような状態のようですけどね。

 

人間にとって脅威となる、恐ろしい存在というのは、いると思う。

 

人間よりも強い力を持ち、

人間よりも自由に存在の形態を変えることができ、

人間よりも柔軟な生命のカタチを保ち、

人間よりも広範囲を知り理解することができ、

人間よりも細かな粒子構造を備えた

存在。

 

そういう存在がひとたび「我々は人間の脅威である」と決断した時は。

今人間があがめ崇拝している「光」を象徴している存在であろうが、闇であろうが、脅威であることは等しく違いない。

 

意味が、わかりますか?

 

光だけ仰ぎみていれば安泰である…なんて。

そんな保証は、一切どこにも、ないのです。

 

光る神が「人間を消す」と決め消そうとするのを、闇の魔が「いや、もうちょっと待て」と引き留める。

もしそういうことがあるとしたら、「光崇拝」な人達は、どちらを有り難がるのだろうか。

 

そんな風に、思います。

 

 

神の何が恐ろしいって。

どんなに可愛がっていても、「もう終わり」と決めたのなら、躊躇ないであろうと、わかることです。

天使は、その神の意志を具現化するのが役目なので、そうなれば人の敵(便宜上、この表現を使います)となる。

 

光か闇か、どっちかをただただ仰ぎみていれば、それで良い。

 

そんな単純なことならばよいんですけどね。

 

 

恐怖の終末論…そんなの、私は全然、信じないし支持もしませんよ。

それは、光崇拝をただひっくりかえしているだけのことだから。

神を、恐怖の対象として見ることは、違うと思ってますしね。

 

○○をしなければよい。

××をすればよい。

 

そういう、一方的で画一的な約束ゴトだけではない。

 

 

 

神を数える時の単位をご存じですか?

神は「一柱、二柱…」と、数えます。

柱 です。

 

自分自身の中に存在する「柱」に問うことです。

 

人に指示されなくても、人としてどうかという基準は、人の中にちゃんと、ある。

 

何かを、誰かを、崇め奉る前に。

自分の柱に、問うてみましょう。

 

 

 

 

 

こういう記事の時に何の画像を貼ろうか…と、いつも考えますが。

人の姿を描いたものよりも、もっと根源的なものが必要なんですよねえ。

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上の絵は、2011年8月の絵。

対になった二枚で、題名は【二律背反】


この絵の左側…光の側を、とある神ゴトに従事される方に
「これは自分が見た<神様の光>そのものだ」
と言われたことがある。
その方は、色もカタチも「まさにそのもの」で、また見られるとは思わなかったと大層気に入ってくださった。
譲ってほしいとおっしゃり、そのすぐ後に「いや、この絵はあんたの神さんが描かせた絵やから、わしがもらってしまってはあかんな」と、訂正された。

 

この二つは「別々のモノ」ではありません。

二枚に分かれて描いてはいるものの、別々の存在ではないです。

表裏、というモノものでもない。

 

でも、今は、こんな絵しかないのだなあ。

 

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何かを崇拝させようとする傾向が気に入らないな、って感じる理由は、ただ一つ。

 

「人がもともと内包している、自分自身の神性(柱)から本人の意識を切り離し、引き離す教えだから」

 

これだけです。

 

天の神や仏に手を合わせる…ということと、崇め奉る…ということ。

この二つは、全く違うことなんです。

 

 

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