旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

褒められて拒否する=相手の見る目を否定する と、思うの巻

褒められる、というのが、苦手だった。

わりと最近まで、なかなか、慣れなかった。

 

この2年くらいの間に、ようやく、「いやいや、そんなことはないです」と反射的に言ってしまう…ということが抑えられるようになった。

そこまで来ると、後は、「ありがとうございます(^^)」と言えるようになるまでは早い。

というか、早かった。

 

今も、褒められると反射的に拒否してしまいそうになる時がある。

でも、だいたいは、褒めていただけたことにまず感謝してありがたくいただく、ということはできるようになった。

 

 

謝る、というのは、比較的早期に、ムダ謝り反射はなくなっていった。

これは、もともと、「やってもいないことをなぜあやまる?」という性格があったので、それほど気を向けずともしなくて済むようになった。

(最近は逆にムダに謝られることが多くなってきて、それはそれでちょいとキツイ)

 

 

こんな記事を、拝読した。

ameblo.jp

 

 

身近に、こういう人が、まだまだ、いる。

「手っ取り早く謝っとけばスルーで済む、って思ってんのか?」と、イライラする程の人もいる。

こちらが何も言ってないのに、顔を見ると謝る…みたいな人。

そして、褒めたことは絶対に、受け入れない。

その人は、かなり、よい作品を作るのに。

絶対に、受け入れない。

でも、作ることは好きで、マメに作っている。

口を突いて出るほどに、自分をダメだとは思ってない…そういう風にしか見えない。

でも、受け入れない。

 

 

きっと、私自身もこうだったんだろうな…と、思う。

 

 

もちろん、己の中にある「己の基準」というのに照らしてみれば、そんなの全く褒めるに価しないシロモノだ…ってことは、しょっちゅうある。

そういうのに限って褒められたりするので、反射的に「いやいや」って言ってしまいそうにはなる。

けれど、褒めてくれた方は、本当に褒めてくれている。

おべんちゃらで言ってるなら、そういう時は「いえいえ」と拒否したくなるよりは、「おまえナメてんのか?!」と腹が立つから、まあ、たぶん見分けはできていると思う。

 

本当に褒めてくれている方の言葉を受け取らない、というのは。

その方の気持ちは行き場を失うんだよね。

 

 

ある時、言われたのだ。

「自分のことは良く思えなくてもいいから、ぼくが褒めたことは信じて」

って。

何年前かな~。

 

その後、その言葉を何度か反芻するうちに、

 

「相手の見る目を信じるに価しないものとみなしている…ってこと」

 

なんだ…という結論に至った。

 

自分が自分をどう評価するか。

そんなことは、どうでもいいのだ。

どうせ、外側の基準と内側の基準が一致することなど、あり得ない。

自分が自分に要求する水準は、高くなることこそあれ、低くなることはない。

一つできるようになれば、次が来る。

 

 

その人が、身内贔屓の強い人で、親しい相手のことならなんでも、どんなものでも褒めるような人ならば、その褒め言葉を多少、割引して聞いてもいいだろう。

 

でも、そうじゃなくて。

ちゃんと、物事を見ることができる人であるなら。

その人が口にした褒め言葉は、ひとまず、受け取るようにしたほうがいい。

 

 

いつまでもそれを撥ね付けてばかりいると、褒められたことを正当に受け入れる力が育たない。

 

それは、つまるところ…

 

自分の本当の能力も、才能も、実績も、自分の中ではちゃんと育っていかない。

と、いうことだ。

 

いつまでたっても、自信も生まれてこない。

 

 

 

お礼ではなく謝罪の言葉をまず口に出すっていうのも、根っこは同じ。

それは、マイナスだけを計上することだ。

素直にお礼を言えば、双方にプラスポイントがつくのに。

 

もちろん、悪いことをしたのなら、謝るべきだ。

でも、手を貸してもらうことは悪いことじゃない。

好意を無碍にすることが悪いことで、その時は謝る。

その時でも、お礼とセットがいいと思う。

「せっかく手伝ってもらったのに、できなくてごめんなさい。手伝ってくれて、ありがとう」

これでいいんじゃないかな、と。

 

いずれにしても、会話の最後は感謝の言葉でしめくくりたいものだな、と思うわけです。

 

 

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