褒められて拒否する=相手の見る目を否定する と、思うの巻
褒められる、というのが、苦手だった。
わりと最近まで、なかなか、慣れなかった。
この2年くらいの間に、ようやく、「いやいや、そんなことはないです」と反射的に言ってしまう…ということが抑えられるようになった。
そこまで来ると、後は、「ありがとうございます(^^)」と言えるようになるまでは早い。
というか、早かった。
今も、褒められると反射的に拒否してしまいそうになる時がある。
でも、だいたいは、褒めていただけたことにまず感謝してありがたくいただく、ということはできるようになった。
謝る、というのは、比較的早期に、ムダ謝り反射はなくなっていった。
これは、もともと、「やってもいないことをなぜあやまる?」という性格があったので、それほど気を向けずともしなくて済むようになった。
(最近は逆にムダに謝られることが多くなってきて、それはそれでちょいとキツイ)
こんな記事を、拝読した。
身近に、こういう人が、まだまだ、いる。
「手っ取り早く謝っとけばスルーで済む、って思ってんのか?」と、イライラする程の人もいる。
こちらが何も言ってないのに、顔を見ると謝る…みたいな人。
そして、褒めたことは絶対に、受け入れない。
その人は、かなり、よい作品を作るのに。
絶対に、受け入れない。
でも、作ることは好きで、マメに作っている。
口を突いて出るほどに、自分をダメだとは思ってない…そういう風にしか見えない。
でも、受け入れない。
きっと、私自身もこうだったんだろうな…と、思う。
もちろん、己の中にある「己の基準」というのに照らしてみれば、そんなの全く褒めるに価しないシロモノだ…ってことは、しょっちゅうある。
そういうのに限って褒められたりするので、反射的に「いやいや」って言ってしまいそうにはなる。
けれど、褒めてくれた方は、本当に褒めてくれている。
おべんちゃらで言ってるなら、そういう時は「いえいえ」と拒否したくなるよりは、「おまえナメてんのか?!」と腹が立つから、まあ、たぶん見分けはできていると思う。
本当に褒めてくれている方の言葉を受け取らない、というのは。
その方の気持ちは行き場を失うんだよね。
ある時、言われたのだ。
「自分のことは良く思えなくてもいいから、ぼくが褒めたことは信じて」
って。
何年前かな~。
その後、その言葉を何度か反芻するうちに、
「相手の見る目を信じるに価しないものとみなしている…ってこと」
なんだ…という結論に至った。
自分が自分をどう評価するか。
そんなことは、どうでもいいのだ。
どうせ、外側の基準と内側の基準が一致することなど、あり得ない。
自分が自分に要求する水準は、高くなることこそあれ、低くなることはない。
一つできるようになれば、次が来る。
その人が、身内贔屓の強い人で、親しい相手のことならなんでも、どんなものでも褒めるような人ならば、その褒め言葉を多少、割引して聞いてもいいだろう。
でも、そうじゃなくて。
ちゃんと、物事を見ることができる人であるなら。
その人が口にした褒め言葉は、ひとまず、受け取るようにしたほうがいい。
いつまでもそれを撥ね付けてばかりいると、褒められたことを正当に受け入れる力が育たない。
それは、つまるところ…
自分の本当の能力も、才能も、実績も、自分の中ではちゃんと育っていかない。
と、いうことだ。
いつまでたっても、自信も生まれてこない。
お礼ではなく謝罪の言葉をまず口に出すっていうのも、根っこは同じ。
それは、マイナスだけを計上することだ。
素直にお礼を言えば、双方にプラスポイントがつくのに。
もちろん、悪いことをしたのなら、謝るべきだ。
でも、手を貸してもらうことは悪いことじゃない。
好意を無碍にすることが悪いことで、その時は謝る。
その時でも、お礼とセットがいいと思う。
「せっかく手伝ってもらったのに、できなくてごめんなさい。手伝ってくれて、ありがとう」
これでいいんじゃないかな、と。
いずれにしても、会話の最後は感謝の言葉でしめくくりたいものだな、と思うわけです。
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