旧<緋呂の異界絵師通信>

2018.05 本拠地を新天地へ移しました

作品に「鎧を着せる」よりも、「目立つ旗」を立てておくほうがいい

こういうのを作ろう、と思ってても、日々次々来るあれやこれやで、なんか延ばし延ばしになってしまって、しまいには忘れる…

などという残念なことが多々、あるわけです。

 

が、最近は、クリエイトな日々をお過ごしの方の多くとSNSつながりになっているおかげで、「誰かが、それを思い出させてくれる」ということが多く、感謝しております。

 

つまり、それだけの数、「自分が思ったものに似ているか、同じ傾向のある作品を発表している人がいる」ということ。

 

 

 

視覚情報というのは、一瞬触れただけでも案外、脳には刻まれているものです。

表の意識が忘れていても、けっこう、深いところに格納されていて、どこかで何らかのヒントになったり、きっかけになったり…と、トリガーの役割をしてくれます。

 

ただ、そのヒラメキは、視覚に最初に入ってきた時とタイムラグがある。

なので、ひらめいた時の自分は、過去に「何かを見た」ということを、すでに記憶していない…ってことは、ザラです。

フツウです。

日常的です。

そういうものです。

 

だから、「自分は絶対に人の真似などしていない」という自己申告ほどアテにならないものは、ないのですよ。

 

それを堂々はっきりと宣言できてしまう人は、常日頃から、自分の作るモノに「鎧を着せている」と、私は、思っています。

先回りして「自分は真似なんかしないクリーンな人間です!」と宣言して回る。

それが、作品に鎧を着せる、ということだと思うわけです。

 

でも、人間ですから。

仮に鎧を着せたところで、この時代に、「一切ナンの影響も受けず、真似もしていない」人間なんか、いないです。

受けた影響や、いいな~こういうのやってみたいな、と思ったことは、それが自分の作品としてカタチになってくるまでの間に、蔵に入って熟成されます。

その上で、作品としてアウトプットされる。

その時点では、見た記憶はもう、遠い彼方の話。

 

私は幾何学模様はあんまり作品としては描かないのですが、どうやって配置したって、ある程度似るものは似るよ…と思うものって、あるし。

 

 

もちろん、そのまんまの画像から「せっかく入れてたウォーターマーク(透かし)」を故意に消したり、画像を反転したりトリミングしたり…という「盗ろうとして盗る」人も、残念ですが存在します。

実際に、そうやって作った画像を堂々とオリジナルとして販売してた…っていうケースも実例としてあるわけですから。

 

でも、そういう故意でやってる人を除いたら、多くの人は、気がつかないうちに、誰かの何かを盗っている可能性は重々ある。

 

アウトプットを世に送り出す時は、もう、それはあるかも知れない…という覚悟を持って出すしかないんじゃないかな、と、思ってます。

 

もちろん、故意に盗ったわけじゃなく、自分すら忘れていた彼方からのインスピレーションを、現実に「似ちゃってたことが人の指摘でわかった」時とか、真っ青になるでしょう。

見てない、マネしてない…って訴えても、ひとたび「いや、見たに違いない」という世論になってしまったら、それを払拭するのは困難だと思います。

(今、世間を騒がせている某エンブレム問題関係のこと、というわけではありません。一般的な話です)

そういうところは、ネットで気軽に発表できるようになった恩恵とセットになった、負の部分でもあるかな。

 

 

でも、だからと言って、作る側の人間ってのは、誰にも見せないでおく…なんてことは、まあ、できませんやねえ。

 

だからね。

 

そして、自分の作ったモノも、そんな風にして、いつか誰かの目に触れたと同時に、その人の蔵の中で熟成されて、カタチを変えたアウトプットとして世に出るかも知れないわけです。

 

そう、思いながら、作るし、発表する。

 

いつか誰かの肥やしとなるものだ…と。

ある意味、割り切りも必要なのかな~と思うわけです。

 

もしかしたら、自分のアウトプットが誰かの肥やしとなって、ものすごい高度に完成された熟成法でもって「不世出の一作」に化けて世に出てくるかも知れないじゃないですか。

 

まあ…そんなこと言ってられるのは、別にパクられた云々のない呑気なヤツだからかも知れないのですけども。

私は、作品を鎧で固めて送り出すよりは、ゆるーくラクチンに出してやりたいな、と今は思ってます。

 

 

 

世の中には、ある作家なり「協会創始者」なりの図柄を「手本」として、みんながその人が出す絵を真似ることが通例になっている…なんていう団体というか流派というか…そんなのも、あります。

そういう中で初めて作品を描くことを覚え、みんなに倣ってネットにアップして…という人の中には、最初からそうやって「人の絵をもらう」ことが当たり前の文化になっちゃってるっていう場合も、あるんですよね。

現実に、そういう文化の中で生きてる人の中に、「その団体に関わっている人ではない、外部の作家や画家」の作品を、当然のように真似して、何も思わずに堂々ブログに載せてる…なんてケースも、見たことがあります。

いろんな文化の中で創作しているので…。

確かに、意識が薄いとか、認識が甘いとか、そういうのは否めませんけれども。

ホントに「知らない」人も、中にはいまして。

えてして、そういうある種「ピュアな人」が、すごい才能を発揮するようになって、素晴らしいオリジナル作品を生み出していくようになることも、あります。

 

いや、だからって、「人の絵をもらうのが当たり前」な文化を良いとは思いませんけどもね。

けれど、そういうところからでも、作ることや見てもらうことの楽しさを知っていく人がいる…となれば、撲滅すべきだなんて、私には思えません。

 

 

 

 

一方で、自分には想像もつかないところで、自分には一生かかっても太刀打ちできないような人に、思ってもみない理由で、「故意に真似られる」可能性はあります。

もっと悪いと、そうやって真似られた側が逆に「盗った」側として社会的に認定される恐れもある。

なにせ、社会的に力がある+故意に真似るような人は、真似した相手には消えてもらった方が安心できますので。

 

なので、作品を発表する時は、できるだけ、

 

「自分が間違いなく、それを作った人間である」こと

「それをいつ作ったか」

ということを第三者的に証明できるようにしておくのが、望ましいと思います。

 

未完成の状態を見せることを嫌う人もいます。

でも、やっぱり、途中の状態を一回でもいいので、記録して公開しておくというのは、後々役に立つかと思います。

 

ネットに画像を載せる時は、できるだけ全てに、統一ロゴまたは作者名を、どこかに入れておくのがよいと思います。

 

これも、デカデカ乗せるのはどうも好きじゃない、という方はけっこういらっしゃいますね。

でも、やっぱり、できるだけ入れる方がよいと思います。

 

悪意をもって消されてしまえば、まあ、確かにそれまでなのですけども。

透かし入り画像をネットに上げておくことは、間違いなく、存在証明になると思います。

 

 自分でできることはやっておいた方が、幸せな「作品公開」生活ができると思います(^^)

 

作品に鎧を着せて重くするよりも、最初から目立つ「自分印」の旗を立てておくほうがいい、って、思うのです。

 

 

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